2008年10月4日

精神の旅

 秋の風があまりに気持ちよくて大隈講堂に腰掛けて本を読んでいると、旅の途中のよーへい君に出会った。早稲田祭で局長を務めた後、MEGA PEACE vol.1.5でも活躍していた彼は、所持金ゼロ円で早稲田を出発し、来年1月のテストまでに47都道府県を回ろうとしている。東京に戻っているのは内定式に出席するため。

 旅の話を聞くと、彼のblogを読んでいるだけでは気づけないことを聞けた。昨日のエントリーで「表面にはベストな状況しか見せることはない」と書いたが、まさしく彼の生き方はそうなのだろう。「無銭飲食で小遣いまで貰いまくって、きっと太って帰ってくるね。笑」という予感は、真っ黒に焼け、心なしか逞しくなったように見える彼の姿で、見事に裏切られた。

 旅といえば、僕も大学時代はよく旅行をした。それでも2週間を超える長旅をしたことはない。「人生という長旅だけで精一杯なのに、それ以上に長旅をして寄るような場所はない」なんて嘯いてきたけれど、要するに旅を続けるのが億劫なのだ。物理的な旅というのは性格的に合わないらしい。

 長くなればなるほど旅は「当たり前のもの」になっていく。よーへい君のblogにも書かれていた通り、出会うものとの感動が薄れていくのだ。沢木耕太郎「深夜特急」の出だしが、そのことを克明に描き出している。インドの安宿で、非日常が日常化していく場面。すべてが日常化した世界から抜け出せないでいると、日々は次第に色褪せていく。

 「非日常が日常化する」という旅に対して、「日常を非日常にする」ということが僕の大学後半のテーマだった。あたりまえの日々に彩りを与え、ありふれた出来事の輝きを取り戻すこと。そのためには、日常という世界から一歩踏み出さなければならない。あえて非日常の世界へと一歩踏み込まなければならない。

 旅は、人生の喩えとしても使われる。そこには、本来的には非日常な世界が、いつの間にか日常化してしまう、ということが含まれているに違いない。僕は、そんな生き方をしたくはない。

 旅に出て一歩を踏み出し続けることと、ごく普通の生活の中で一歩踏み出し続けること、その間に本質的な違いはない。そのことに思い至れば、なんでもない日々の中から、非日常という世界をつかみ取ることはできる。それは、精神の旅だ。

 それができないように感じられたこともあった。2年前の今頃、休学して1年間インドに行こうか迷った時期があった。ビザまで取ったが、悩んだ末に取り止めて早稲田に残ることにした。旅に出ないという道を選んだことで、今の僕とあなたとの関係がある。

 よーへい君がまだ知らぬ土地を追い続けているように、僕は早稲田という東京の一区画で非日常を追い求めてきた。その判断は間違ってなかったと思う。場所は変わらずとも、これからもそうやって生きていきたい。

 【フォト】よーへい君。また来週から旅に出るとのこと。