2009年1月11日

物語の枠の大きさ


 一昨日の夜の鼎談について書きたくてうずうずしている。が、まだ録音して送ってもらった内容を聞き直せていないので、明日にでも。今日はそれにもちょっと関係する、新聞の話。

 早稲田には歴史ある新聞(月間)がふたつある。よく見かけるのは「早稲田大学新聞」で、こちらは大学当局を批判したり、政治的な発言が多かったりとで、一般の学生の感心は低い。先日、もうひとつの新聞、「早稲田学生新聞」の取材を受けた。

 総長室や図書館にも置いてあるらしいこの大学新聞は、スポーツをはじめとする話題はもちろん、先月号にはこのblogにも何度も写真を載せた早稲田イルミネーションプロジェクト(WIP)の代表である土橋ちゃんも載ってたりと、精力的な活動を行っている。去年も今年もMEGA PEACEを取材しに来てくれていたらしい。が、それにも関わらず、僕を含めてMEGA PEACEの関係者はそのこと誰も知らなかったし、WIP代表の土橋ちゃんも自分の記事を読んでないという始末。

 いったい、この新聞は誰が、いつ、どこで読んでいるのだろう? もったいないぞー>関係者。

 新聞と言えば、米国で二番目のトリビューン紙が破産したのは記憶に新しい。メディア・パブでも「新聞社の危機,6年間で総広告売上が半減へ」というタイトルで今後も広告費削減が続き、各紙が行き詰まるのは免れないだろうと報じている。

 広告費削減というのは日本にもトレンドとしてあるように感じる。朝日新聞が初の赤字転落だと言うし、毎日新聞はずいぶん前から倒産が囁かれている。が、世界一の発行部数を誇る読売新聞をはじめ、全国に張り巡らされた営業所体制はそう簡単に崩れないように思う。

 「読売新聞が実施した全国調査によれば、回答者の85%が「新聞報道を信用している」と答えている。これに比べて、米国人読者で新聞記事の内容をすべて、ないし大部分を信頼しているのは約20%にすぎない(米ジャーナリズム研究機関PEJの07年報告書による)」 ワシントン・ポスト(クーリエ・ジャポン1月号P79より、曾孫引き)

 水村美苗『日本語が滅びるとき』のネタ元のひとつであるベネディクト・アンダーソンは、「プリンタ・キャピタリズム(出版資本主義)」という用語を用いて、新聞・小説をはじめとする印刷物が運命共同体としての「国家」という物語を創り上げたと論じている。

 おそらく、多くの「日本人」はその物語から逃れることはない。日本の新聞は、これまでも、これからも、1億人を超える豊かな市場である「日本人」に読まれ続け、語り部の第一人者としての地位を保ち続けるだろう。

 ただ。

 年が明けてから国境を越えた思考をする人との出会いをいくつか経て、自分が生きてきた「物語の枠」がいかに小さいかということを考えるようになった。「枠の外のことは自分と関係ない」と思ってきたが、いかんせん、枠の外の思考をできる人たちと話していると、その話の面白さに引き込まれてしまう自分がいる。枠の中を深く知るためには、その外側に身を置いた方がよく見えるようにも感じる。

 インターネットによって、意思さえあればこの枠は簡単に超えられるようになっている。遠くない未来に、単純な好奇心から枠を飛び出す自分を想像できてしまって、楽しみになった分、ちょっと怖くなった。イメージができると、あっという間にそっちに傾いていってしまうんだよなぁ…。


 【フォト】 早稲田学生新聞界のお二方。ありがとうございました。