2008年4月19日

声をあげよう

 周りでblogを書く人が少しずつ増えてきた。とてもいいことだと思うが、ウェブに対する恐怖感は根強いみたいだ。実名を出すことに躊躇しない人の方が珍しいのは変わっていない。前回の記事の最後の方で、ウェブ上で実名を出すことに少しだけ触れたので、今日はそれを掘り下げて書いてみる。

 先日、うるとらカフェのテラス席で道塾の運営会議をしていた。無線LANが入る上に、最近テーブルが新調されたのもあり、最高のビールスポットになった。

 3人がコーヒー、僕だけがビールを飲みながら、話が道塾の塾員(スタッフ)紹介のページに及んだ時のことだ。ジョンが「ウェブで名前を出すのって怖いよね」と言ったところで僕は引っかかって聞いた。

 「何が怖いの?」

 それはウェブの匿名性や危険性の捉え方において、自明のこととしてポンと僕の口から出た言葉だった。だがその瞬間、自分で言ったから口にはしなかったものの、「俺も随分変わったものだなぁ」と実は思っていた。

 ところで。

 僕は「2ちゃんねる」の生まれる前から、ウェブのアンダーグラウンドな文化に身を浸してきた。2ちゃんねるの前身たる「あやしいわーるど」や「あめぞう」といったサービスが流行っていた時代だ。当時僕は中学生だった。

 その世界には"at your own risk"という合言葉があって、僕には見たことのない景色が広がっていた。すこし油断していると、いつの間にかウイルスに感染していて、朝起きたらハードディスクが吹き飛んでた、なんてことが頻繁に起こる危険地帯だった。

 そんな環境で育ったためにウェブに対する耐性がついたのだろう。後に2ちゃんねる独特の雰囲気に呑まれることなく「早稲田への道」を書きはじめることができたのには、こうしたバックグラウンドがあったと思っている。

 あの頃から日本のウェブは(特にアングラ層においては)匿名文化に偏っていたように思う。ウイルスをはじめとする悪意ある暴力が起こったり、しかしその分だけそれに対抗する正義漢が現れたりしていたが、そのほとんどが匿名だったと記憶している。もちろん僕も決して実名を出すことはなかった。

 肩書きや実名を出すことは、権力構造のないフラットなウェブ世界に、リアル世界の権力を持ち込もうとするアンフェアなやり方と考える向きもあった。だがそれよりもずっと身近な感覚がそうさせていたのだと思う。ネットをしていたりホームページを持ったりしていることが学校の女の子に知れたら「危険な人」以外の何者でもなくなる、という恐怖感があった。

 ウェブでの存在が実名と結びついた途端、家に警察が踏み込んでくるのではないか。そんなイメージだった。そもそも当時の一般的な中学生には「ウェブ=エロ」という概念以外は存在しなかった。あらゆる意味で、ウェブについて口に出すのが憚られる環境だった。

 翻って今。

 ウェブを使っていない人は、少なくとも僕の周りにはいない。mixiは言うまでもなく、もっとも危なっかしい「2ちゃんねるで~」なんて会話もキャンパス内で当たり前に耳にする。就活中の少なからぬ学生が2ちゃんねるで会社情報を調べているみたいだし、僕の塾生の多くもいわゆる「2ちゃんねらー」だ。年齢や性格に関係なく、彼らは当たり前のようにウェブを行き来している。

 僕がインターネットをはじめた頃と比べると、ウェブに対する偏見はかなり減ったように思える。だがオープンなウェブ上で実名を出す人は相変わらず少ない。mixiが半ば実名でのサービスとして機能しているのは、クローズドな雰囲気があるというのに加えて、自分の友人が実名でやっているという安心感が強いのだろう。

 守られた世界から一歩でてGoogleに引っかかるようになった瞬間、昔と変わらない恐怖を感じるようだ。実際のところ、mixiとGoogleは危険の度合いにおいてどのくらい違うんだろう? Googleに引っかかったって、それを見るのは自分に興味を持つ人だけだろう。それ以外の人は見向きもしないはずだ。ならmixiと大差ないんじゃないのかなと僕は思う。

 僕は、ウェブに対する恐怖感は、その大部分が誤解から生まれているだけだと思う。人とウェブとのディス・コミュニケーション。コミュニケーションを促す装置であるウェブを、その主体たる僕らが理解できないなんてお笑い種だ。

 もっとみんな理解したらいいのに、と思う。ここは食うか食われるかの戦場ではなく、自由に表現できる舞台だと僕は信じている。

 とはいえ、その表現そのものが問題になることもあるらしい。就活ではエントリー先の企業が内定候補者をウェブで検索することがあると言う。だから実名は出せない、と。この状況は会社に入っても似たような理屈で続いていくみたいだ。日本社会っていうのはつくづく悲しい構造になっているな、と思う。

 実名から逃げてしまったら、自分の人生の舵を、自らの手から(一時的にせよ)放してしまうように感じるのは僕だけなのだろうか? もっと言えば、その会社に自分というかけがえのない表現者を売り渡していることにはならないだろうか? これはちょっと過激過ぎる物言いかな?

 でもね、僕は思ってるんだ。こんな時代だからこそ、むしろ率先して実名を出して評価されるような実績をウェブに残していきたい、と。そういう信念で、僕は最近「よかったらblog見てください」と言うようにしてる。そういうきっかけから、今これを読んでくれている人も少なくないと思う。

 自分のblogを「読んでくれ」と宣伝するなんて最初は「アホらしいな」とも思ったけれど、これが僕なりの自己表現であり、人生における「攻め方」なのだと思い直した。

 僕だって隠したいと思うことはたくさんある。その恐怖をなんとか振り切ってウェブ上で叫んでみても、まだ壁がある。広すぎる世界で叫んでも「俺の声なんてどこにも届かないや」と空しくなることがある。後で読み返せば削除したくなることも限りない。昔やっていたblogなんて、落ち着いて読み返したら目を覆いたくなるような文章ばかり書いていた。

 でも、一歩踏み出して勝負していかないと新しい創造は決してできない。そう覚悟を決めて踏み出し続けてきた。

 そうすると、いいこともあるもんだ。

 過去に書いた文章を読み返して、なかなかよくやってるじゃんと感心したり、微笑ましく思ったり、あるいは泣けてきたり。時々、そんな文章を読んで嬉しい反応をくれる人もいる。なにより、今こうしてblogを書き続けていられるのは、そういう恥ずかしい過去があったからこそだと思ってる。そういうわけで、昔のblogへのリンクも残してある。

 自分の言葉を批判されるのは怖い。その文章に血を通わせていればいるほど、暴力的な言葉には敏感に反応してしまう。心臓に毛が生えているように思われる僕だって、もう何年もやってきた2ちゃんねるでの何気ない一言に傷つくことがある。

 そんな時は、匿名で批判しなきゃ何もできないようなチキンを真正面から相手にする必要はないと思い直す。だってそうじゃないかな。完璧な人間なんていない。かっこ悪いところは誰しもある。それでも僕らは何とか生きていくんだ。自分を曝け出して生きていく姿勢は決して格好良くはないだろうけれど、物言わぬチキンよりは眺めていて面白いはずだ。

 最近よく世一のblogを笑う奴がいて、僕もいつも苦笑なり爆笑なりさせてもらっているけれど、でも、あそこまで覚悟を持って自己表現する奴が僕らの周りにどれだけいるだろう?

 「自分探し」はどこか他所で見つけるのではなく、「今ある自分」「ありのままの自分」をできるだけ曝け出して表現しようとすることからはじめればいいと僕は思う。その表現を通じて出会える人がいるはずだ。そして、その出会いは「自分創り」の材料になる。もしそこで真正面から真に「批判」してくれる人が現れたなら、それこそ人生におけるかけがえのない出会いになるだろう。

 僕は、自己を曝け出した文章こそが最上だと思っている。文学は、その曝け出し方を味わうところに真髄があるとも思っている。だから、たとえ一時期の世一みたいにノロケまくっているとしても(笑)、自己と結びついた文章はそこらに転がっている「ブンガク」よりもずっと、確かな手触りのある何かを僕らの心に残してくれる。

 僕が「自己を曝け出す文章」を書くとき、ひとつだけ守ろうとしていることがある。ペンは剣になる。剣は革命を起こす武器になるけれども、人の命を絶つ凶器にもなる。だから文章で人を深く傷つけちゃいけない。これは手痛い経験から学んだ、僕の数少ない文章訓だ。

 まぁでもとにかく、そろそろ話をもとに戻そう。

 ジョンの「ウェブで名前を出すのって怖いよね」という気持ちは、たいていの人が持っている感覚なのだろう。たしかに僕も持っていた。でも何年か実名で blogを書き続けてきた今、それはウェブに対する理解の浅さから生まれた「想像上の恐怖」であることが大半なんじゃないかなと思うようになった。

 事実を知り、ウェブの可能性を感じれば、もっと僕らは声を上げることができるはずなんだ。日本をよりよく変える「うねり」を起こすには若者が立ち上がるしかないし、そのためにはウェブで緩やかに繋がっていくことが欠かせない。匿名というベールを脱ぐことではじめて、人々がリアルにつながり、そしてリアルな社会に立ち向かえる。

 ウェブの革命性は、いつか歴史として語られる日がくるだろう。僕らが激動の明治に生きることのできた人々を羨むように、僕らが生きる「ウェブ時代」を羨む人々が現れるに違いない。

 そんな魅力的なウェブを活かすために何よりも大切なのが、自分を曝け出す覚悟、オープン・マインドだと思う。他者に開かれた精神は自己表現を促し、それを通じて人々は「感情」で緩やかに繋がっていくことができる。それこそが「熱」を生み、「うねり」を起こし、社会を大きく動かしていく力になる。それを起こしていくのがウェブ時代のエリートなのだと思っている。

 なにも僕のように後で読み返して悲惨な文章を書いた方がいいと言うつもりはない。誰も彼もが実名でblogを書いた方がいいと言うつもりもない。そもそも自己表現は文章だけに限られるものじゃない。

 ただ、もう少しウェブをポジティブに捉え、できることなら自分に結びつけた表現をすれば、悩むこともあるけれど、その分だけ生きることを味わえる。それは間違いなく楽しい。そうして楽しみながら社会を動かしていけるのなら・・・、そんな素晴らしいことはない。そう思うんだ。

 こんな楽しい時代なのに、そこで生きないなんて、もったいなさ過ぎるよ。


 それとも、そう思っているのは僕だけなんだろうか?


 【フォト】 みっちゃん@道塾(オフィス)。今週から僕以外のスタッフが稼動し始めました。いい滑り出し!

1 Comment:

wanifuti さんのコメント...

正直読んでて鳥肌が立ちました。
自分が将来目指す理想のウェブというものに近かったからです。
僕も、ウェブを通じて真っ向から人間が繋がれるような、そんなウェブに変えたいというのが自分の目標であり、やりたいことです。

一度この事について真剣に話してみたいと心から思います。