2010年10月22日

「世界」を変える教育

先週、「忙しくて勉強する機会もないでしょう」というご好意である知人に声をかけていただき、大隈講堂で行われた寺島実郎氏の「リレー塾」の第1回を聴講した。大隈講堂に東大教授の藤原帰一氏と元国連事務次長の明石康氏を迎えてのパネルディスカッションと、それに続く寺島氏のショート講演。

「世界は複雑化しているにもかかわらず、メディアで語られる多くは単純化された『二項対立』ばかりで、その背景にある文脈を読み取る力が失われている」。「『近隣諸国に舐められたくない』という甘いレベルのナショナリズムに振り回されるのは日本にとっても世界にとってもマイナスであり、今は国民の『成熟度』が激しく問われている」といった話は刺激的だった。

とりわけ最後の「成熟度」についての話は、僕がその末端を穢す「教育」の意味を新たな視点で捉えるきっかけを与えてくれた。それは国民一人ひとりが「世界を知る」ことを通じて成熟しなければ21世紀に日本という国が国際社会に貢献することは難しい、というよりもむしろ、下手をすれば国として立ち行かなくなる可能性すらあるということ。

まっとうに「世界を知る」ためには、あらゆる意味において学び続けなければならない。新聞やテレビから流れる情報を自分なりに濾過するフィルターを持ち、複雑化した世界を自分の言葉で語れるようになること。そうして獲得した言葉を元によって他者や世界とコミュニケーションを繰り返すこと以外に「世界を知る」道はないのだろう。
「世界を知る」とは、断片的だった知識が、さまざまな相関を見出すことによってスパークして結びつき、全体的な知性へと変化していく過程を指すのではないか。
寺島実郎『世界を知る力』P176
多かれ少なかれ、若者にはこうした「世界を知る」ことへの欲求があるのだと思う。振り返れば受験期の僕を突き動かしたのも「この広い世の中の在り方を知りたい、激動の真っ只中で生きたい」という想いだった。そのルーツは「竜馬がゆく」のような手近なものたちだったが、あの情熱は遥か彼方の世界を視界に捉えていた。

恐ろしいことに「情熱」は扱い方によっては一瞬で失われてしまう。あれだけ遠くを見つめていた目が曇り、濁り、虚ろになってしまうのを見ることほど悲しいことはない。単純化された情報に満ち溢れている世界においては、少し放っておけば思考はすぐ安易な言説に侵されてしまう。でも、それによって問題を解決できるほど世界は単純ではない。

だから大切なのは一人ひとりの「世界を知りたい」という欲求を失わせず、育み続けること。そのために世界の複雑さに目を見開かせ、それと向きあう力を育てること。そうした後押しをすることによって、偶然には生まれることのなかった世界との「出会い」を、必然のものとして創造すること。

最近は、それが幸いにも何とかここまで生き延びることのできた僕の、教育における使命なのではないかと思うようになった。
わたしたちは、「世界を知る」という言葉を耳にすると、とかく「教養を高めて世界を見渡す」といった理解に走りがちである。しかし、そのような態度で身につけた教養など何も役に立ちはしない。世界を知れば知るほど、世界が不条理に満ちていることが見えてくるはずだ。その不条理に対する怒り、問題意識が、戦慄するがごとく胸に込み上げてくるようでなければ、人間としての知とは呼べない。単なる知識はコンピュータにでも詰め込んでおけばいい。
世界の不条理に目を向け、それを解説するのではなく、行動することで問題の解決にいたろうとする。そういう情念をもって世界に向き合うのでなければ、世界を知っても何の意味もないのである。
同書 P197
世界を知り、不条理に立ち向かおうとする若者の目を曇らせないこと。そのために僕は人間の本質的な可能性を見つめながら、同時にコンテンポラリーな問題も見据えて「世界を知る」ために学び、行動し続けなければならない。それは即ち、これだけ世界が狭くなった現代において教育もドメスティックではいられない時代になったということなのだろう。

僕は完璧にドメスティックな人間だが、幸いにもウェブと教育は最高に相性のいい組み合わせだ。きっと、何かしらやれることはあるだろう。そうした可能性に目を凝らし、僕のできることを追求し続けたい。そんなことを思わせてくれた夜だった。