2009年4月28日

早稲田の学生へ マザーハウス代表講演@8号館

 昨日のエントリーで触れた「マザーハウス」代表の山口絵理子氏が、タイミングよく早稲田で講演をするようなので、お知らせ(普段はこういう宣伝はしないのだけれど)。

 ホンモノの起業家がどういう風に突き抜けているのか、肌で感じるいい機会だと思うので、興味のある人は早めに申し込むのを勧めます。先着30名とのこと。

 大学の「起業家」を養成しようとする姿勢には疑問もあるが、こういう取り組みは歓迎したい。

 参考
 (早稲田)ベンチャー起業家養成基礎講座2009
 起業家育成の可能性と社会的な取り組みの必要性 - Clear Consideration(大学職員の教育分析)


 以下、早稲田ネットポータルより。


【公開講義のご案内】マザーハウス 代表取締役 山口絵理子氏 ご講演

マザーハウスは、バングラデシュの麻の一種「ジュート」を活用したバッ
グや小物を中心に、ブランドの企画・デザインから製造、販売を手掛ける
急成長中のベンチャー企業です。代表取締役の山口絵理子氏をお招き
して、設立経緯や起業時の苦労話などをお話頂きます。

起業やベンチャー企業などにご興味のある方々は、奮ってお申込み下さい。

講座名称:「ベンチャー起業家養成基礎講座」
講義日時:2009年5月13日(水)18:15~19:45
場  所:8号館B107教室
講  師:(株)マザーハウス 代表取締役社長 山口絵理子氏

★参加要領
対象:学部学生・大学院学生・教職員
定員:30名(先着順)
申込期間:4/28(火)~5/13(水)

申込方法:所属学部・研究科等、学籍番号、氏名を記入の上
ベンチャー起業家養成基礎講座事務局(インキュベーション推進室内)の
アドレスまでEメールを送信して下さい。



マザーハウス ウェブサイト
2009年4月27日

希望なき国に生まれて(2) ~拝啓 若者へ~

 「希望」は現代日本のメイントピックで、最近も池田信夫blog「希望を捨てる勇気」や、Zopeジャンキー日記「希望を捨てたら、もっと不幸になる」なんかで、ちょっとした盛り上がりを見せている。よく扱われるものだが、その論調は少しずつ変わってきている。

 この現状に対して、僕は論理的ではないので、ごく私的な意志表明をここに記そうと思う。これは、『希望なき国に生まれて(1)』の続き。



拝啓 若者へ

 僕が通っていた私立中学を逃げるように辞めたのは12年前。高校を辞めて「退屈だ」と言っていたのは8年前。小説家という夢を諦めて自暴自棄になっていたのは、2年前だ。わずか2年で、僕は何もないクソ学生から、新聞に出たり、テレビに取り上げられたりするようにもなった。

 でも、12年前から、メディアに出るようになった今も、変わらないことがある。僕は、誰になんと言われようとも、一瞬一瞬を、自分の信念に従って、全力で生きてきた。誰に非難されようとも、褒められようとも、それに振り回されないように生きてきた。

 中学に受かった時、中学を辞めた時、高校に受かった時、高校を辞めた時、大学に受かった時、辞めると宣言した時、留年が決まった時、小説家を目指していた時、諦めた時、道塾を立ち上げた時、新聞に載った時、テレビに映った時、、、。そのたびに周りの見る目は変わった。特に「大人」の目は驚くくらいコロコロと変わった。

 でも。

 そういうことは些細なことなんだ。大学に受かったとか、辞めたとか、あるいは2chで叩かれるとか、メディアで騒がれるとか、要するに周りの目を気にすることなんて、そんなことは本質的にはどうでもいいんだ。

 大切なのは、自分の信念に従って、全力で生きていくこと。

 今だって僕は「大人」から見れば「大学7年なんてひどい落ちこぼれで、ろくすっぽ勉強もせずに、吹けば飛ぶようなベンチャーを遊びでやってる学生」としか思われない。そして、それはある種の人々からすれば正しい意見なのだろう。でも、そんな「大人の目」なんて、僕にとってはどうでもいいことだ。

 もし君が戸惑いを覚えるのなら、ひとつ聞こう。君たちを取り囲む「大人」が語ることは、ほんとうに君が心の底からなりたいような「大人」の言葉か? 他に、もっとなりたいと憧れる「大人」はいないのか?

 人の生き方に文句を言う「大人」は、いつ、どの国でだって存在する。でも、そんな言葉に惑わされないこと。濁り切った他人の目なんて、ほんとうはどうでもいいことなんだ。偏差値なんて、学歴なんて、その最たるもので、決して本質的なものではない。

 もし君が10代なのに、そんな「大人」みたいな濁った眼になりかけているのなら、取り返しのきくうちに目をすすごう。そうすれば、まったく違った景色が見えてくるはずだ。見えなかった光が、目に飛び込んで来るはずだ。

 受験屋の僕にとって、教え子をいい大学に受からせることは、たしかに大切だ。でも、それ以上に大切なことがあることを忘れたことはない。

 僕は腐りきった超エリートをいくらでも知っているし、逆に、素晴らしい中卒の職人も知ってる。当たり前のことなのに、だが、だからこそ皆わすれてしまっている。だからあらためて言おう。

 人がそれぞれに求めるべき幸せに、共通のものさしは存在しないんだ。

 人が狂う原因の多くは、周りの目に左右されすぎることにある。自分以外が作った軸に、身を委ねてしまうことにある。そんなことに惑わされちゃいけない。大切なのは、いま、この瞬間を全力で生きること。自分の意志で、自分の向かうべき方向へ生きようとすること。大人の言うことを鵜呑みにしないこと。疑問を持ち、自分の頭で考えること。

 そのための一歩を踏み出すことは、いつだって、誰だってできる。15で死んだような目をしてしまっているヤツもいるが、80でも青年の目の輝きをしている人もいる。自分が踏み出そうと思えば、いつだって踏み出せるし、全力で生きていくことができるんだ。そして、そこにこそ、生きることの充実、喜びが生まれるのだと思う。

 いまこの国に足りないのは、生きることの充実、喜びを、身をもって示せる人間だ。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、そのすべてを引き受けて、全力で生きようとすることの素晴らしさを、若い奴に伝えられる奴がいないことだ。

 「今の政治家の生き方を真似ろ、今の政治家のように生きればいいんだと、なぜぼくらに向かって大きな声で言えないんですか?」
(『希望の国のエクソダス』 p310)

 14歳の彼らに政治家が答えられないなら、僕が答えよう。

 生き方に「答え」なんて存在しない。それは、自分で見つけるべきもなんだ。一瞬一瞬、傷つきながらも全力で、倒れたら這ってでも前に進んで、そしてはじめて手に入れられるのが、自分の生き方なんだ。

 「生き方」を求める過程で、安易に人に頼っちゃいけない。人が教えられることには限界があるのを知ろう。突き詰めればこの世に「教育」なんて存在しない。結局のところ、僕らは傷つきながら自分で学んでいくしかないんだ。

 でも、目の前にあまりに希望がなくて真っ暗闇で、どこにも進めないように感じるのなら、僕を見てくれ。僕を真似てくれ。

 学校を辞めろとか、大学を留年しろとか、そんなことを言ってるんじゃない。僕はどうしようもないクソ学生に過ぎないけれど、自分の信念に従って全力で生きていることは、生まれてから死ぬまで変わらないだろう。これまでも、その軌跡をウェブに書き続けてきたし、これからも書き続けていくだろう。その姿は、ごくささやかであれ、ひとつの光になるはずだ。

 そして。

 目には見えないけれど、この国にはそうしたささやかな燈が、たくさん灯ってることも覚えておいてほしい。僕の周りにだけで、数十の灯火がある。それらが寄り集まり、ひとつの太陽のように世を照らすようになった時、希望へと続く「道」が生まれ、たくさんの若者が全力で駆け抜けるイメージが、僕の目の前にあるよ。

 大丈夫、未来は暗くない。

 希望のない国のように見えるけれど、僕はそうは思わないし、ましてや逃げるようなことはしない。愛するこの場で、愛する人々と、僕はやっていく。どこかに逃げるのではなく、この場で戦うこと。「希望の国の創世記」を、一筆一筆、愛でるように書き続けること。そうして、僕はこの国にホンモノの「希望」を創りだしていく。

 かっこいいことを言っていても、もちろん、僕にだって挫けそうになる時はある。でも、僕はそのたびに心を暖めてくれる先人たちの言葉で、なんとか生き延びてきた。そのひとつは、僕が昔住んでいた家の便所にあった。その壁には色褪せた色紙がかけられていて、そこには祖父が僕にくれた言葉が書いてあった。

たったひとりしかない自分を、
たった一度しかない一生を、
ほんとうに生かさなかったら、
人間、生まれてきたかいがないじゃないか
山本有三『路傍の石』

 生きる意味なんて、究極的には存在しない。でも、生きることを喜び、楽しむことはできる。せっかく生まれてきたのだから、「生まれてきたかい」のある人生にしよう。そのために必要なのは、自ら一歩を踏み出し、行動を起こし続けること。すなわち、全力で生きることだけだ。

 幼いころから僕は、あまりにも古くさいこの言葉を、だが無意識のうちに反芻してきたのだと思う。

 25年間生きてきて、確かなことなんて未だ少ないが、これだけは間違いなく言える。幸福は、自分で掴もうとしなければ掴めない。いいかい。自分の幸せを手放さないこと。人の価値に自分の人生を狂わされないこと。自分の人生の舵は、自分で握っていくこと。それだけは忘れないで生きよう。そうすれば、自ずと道は拓けるから。


 一昨日、ある友人がくれた言葉を、君にも伝えよう。

 「未来は、僕らの手の中に。」

 希望を手の中にぎゅっと握り締めて、今日も新たな一歩を踏み出していこう。





 最後に。

 最近出会った、もうひとつの「希望」を紹介しておきたい。彼は落ちこぼれの不良時代から一念発起し、米国留学を経てエリート商社に入るも、その道を蹴って自らの信念に従って全力で生きている、24歳の若者だ。ここにもまた、「希望の国の創世記」が綴られている。

 ソーシャルビジネス ベンチャー日誌

 彼が人生を賭けた「マザーハウス」という会社自体は、代表が「情熱大陸」に出たり、本を出版したりしているから知っている人もいるかもしれない。彼はそこで中核的な人材として事業を担っている。

 彼はまだソーシャルベンチャーに参画した一人の若者に過ぎないが、おそらく、そう遠くない未来に彼自身が表舞台で輝く日がやってくるだろう(彼には20代がまだ6年も残されてる!)。

 こうした希望の光が少しずつ寄り集まることで、世の中が照らされ、後に続ける道が生まれ、僕らの住む世界は変わっていくのだろう。こうした出会いがあるから、希望を捨てずに歩んできてよかったと心から思える。彼も書いてくれたけれど、僕も本当に今年一番と思えるくらい美味いビールを飲めた。



 ひとり、またひとりと仲間は集まっていく。「大人」たちが何を言おうとも、僕らがいる限り、希望の燈が消えることはない。そう語っても信じないのが「大人」だが、すべてを黙らせるために、僕らは結果を追い求め、それを彼らに叩きつけていくよ。
2009年4月16日

連載スタート@高校生新聞

 ブログに書くつもりでうっかりしていたけれど、4月10日から「高校生新聞」という媒体に月1の連載を持つことになった。700字程度の短いコーナーだが、僕なりの言葉で全国の高校生へメッセージを伝えている。コーナー名はブレストの結果、ジョンのアイデアで「勉強の3分レシピ」とした。

 この記事で僕は生まれてはじめて原稿料をもらうことになった。一時は小説家を目指していた僕にとって「原稿料」というのは魅力的な言葉だ。たいした金額ではないものの、自分の文章に対価を払ってくれる人が(間接的にであれ)世の中にいるという事実は単純に嬉しい。

 おそらくほとんどの高校生にとって、よくある勉強法のコーナーに過ぎないだろう。でも日本のどこかで偶然この記事を読んだ若者の心に、ささやかでも希望の灯を燈せたらいいなと思う。限られたスペースにおいて、表に打ち出している勉強法の裏に、そうした心を震わせる言葉を一語でも多く忍ばせていきたい。

 「高校生新聞」は全国4000校の高校と学習塾に向けて、約30万部が発行されているとのこと。図書室や進路指導室にはわりと置いてあるようなので、機会があれば探してみて下さい。
2009年4月13日

忘れられているもの、思い返すもの ~社会的雪かきの中で~

 たぶん、早稲田生の99%は忘れていると思う。そして、日本人の8割は知らないと思う。悲しいことに、世界中の過半数の人はそう考える機会すらないと思う。

 僕らは自由だということ。

 僕らは明日にだって今いる場所から離れることができる。大学を辞めて世界へ飛び出すことができる。会社を辞めて自給自足の暮らしをすることができる。そうして意識的に価値観を180°変えることもできる。

 「なんて突拍子のないことを」って思うかもしれない。

 でも、そうすることで失うものは何なのだろう? 僕らの命はそう遠くないうちに尽きる。そうした前提に立てば、やれないことは何ひとつない。もし条件をつけるとすれば、人を悲しませたり傷つけたりしない限りにおいて、ということだけだ。

 僕はいつもそうした生き方に想い焦がれてきた。でも、今の僕には目の前にやるべきことがある。だから、やるべきことを果たしたと思えるその時まで、淡々と日々のことをやり続けるだろう。

 ただ、それは僕にとって、ある種の雪かきみたいなものだ。そう、名付けるとすれば「社会的雪かき」。

 いま進めている物語のあらすじは読めてきた。きっとそれはそれで楽しい。でもいつだって未来に生きてきた僕にとって、あらすじの読める未来の物語は、もはや過去にも等しい。だから時々思い返すのだ。

 僕らは自由だということを。
2009年4月12日

新居




 平山ビルから引っ越すと宣言して一カ月。いくつかの理由から延び延びになっていたのだけれど、今日ようやく新居に入居した。「これで最後のシェアハウス」と切ない感じを演出しておいて書くのが憚られるのだが、新居はまたもシェアハウス。しかも、あの、高田荘。

 知らない人のために書いておくと、高田荘というのは早稲田のちょっとした名物で、三角形・三階建ての一戸建てに3人で住むという、かれこれ6年間続いているシェアハウス。

 様々な面白いヤツがここに住んできたが、最初からずっと住み続けてきた僕の大学時代いちばんの仲間、庄司がタイミングよく転勤することになり(明日から長崎!)、僕がその後に第7期の住人として入居することになった。

 平山ビルから高田荘への移籍。別に前の所属場所と喧嘩したわけではなく(笑)、新しい刺激を求めて移り住んだという感じ。道塾事務所は変わらず平山ビルのすぐ近くなので、今後も顔を出すつもり。

 高田荘の初日は世一の作ってくれた夕飯で久しぶりの手料理を食べた。今後は世一の幼馴染であり、ダンサー&保育士の卵である新田くんと住むことになる。この家には独特の人の流れがあるので、どんな新しい出会いが生まれるのか、今からわくわくしている。


世一と新田くん@高田荘2階
2009年4月10日

最近変わりつつあること


 森巣博の「越境者的ニッポン」を実に面白く読んだ。一昔前だったら手にすら取らなかったであろうこの本。理由はいくつかあるのだけれど、そのひとつは1月に行った瀬川さんと脇くんとの鼎談がある。

 海外で長く働いた経験のある瀬川さんが、「僕は、日本という枠は、村や町や県と同じように飛び越えてしまうんだよね。世界というならまだ分かるんだけど」と言っていた。続けて「なぜ君はそんなに日本を大切に思うんだろう?」と問われた僕は、実に素朴な答えしか返すことができなかった。

 以来けっこうな衝撃を受けて、「日本を変えなきゃ」と息巻いていた僕は何故そう考えるようになったのかを問いはじめた。長らく政治学科、それに早大政友会という政治サークルにまで在籍して、それなりには考えてきたつもりだった。だが『越境者的ニッポン』を読んで気がついたのは、そもそもその思考を形成するための材料が実に限られていたのだなということ。

 『越境者的ニッポン』は、日本という国がいかにおかしな国であるかということを、権力構造、特にジャーナリズム批判を通じて、これでもかと語り続ける。彼の主張だけがすべてではないと思うものの、なるほどそうだよなぁと思わされることも多い。この出会いをきっかけに、すこし思考の幅が広がるといい。世界の捉え方が変わるといい。

 最近は、少しずつ海の向こうへと目が向きつつある。10代の頃は「憧れ」の対象に過ぎなかったものにリアルな問題意識を感じるようになってきた。僕が実際に海外で何かをするのは当分先だろうが、でも、いつか何かを起こせそうでわくわくする。

 とはいえ。

 未来のために大切なのは、今この一瞬。まずは僕のできるこの国で、やるべきことをやっていくよ。


 PS. ほんと遅れていて関係者には申し訳ないのだけれど、今月中には「鼎談」を上げられそうです。
2009年4月9日

新加入


 写真の男は新しいホスト……ではなく、道塾7人目の侍となる新スタッフ、シオン。ちょっとした偶然と縁によって4月から道塾のフルタイムスタッフとして参加することになった。

 基本形が完成された文系に比べると、どうしても理系対応(特に難関理系)が遅れがちの道塾だったが、シオンの加入によって理系の対応力が急激に上がりつつある。今後、理系メインのスタッフが増えることでより一層の強化が見込めるだろう。

 シオンの他にも既に何人かスタッフ候補が入ってきている。今までは主に属人的なスキルによって成り立ってきた道塾も、共有できる方法論に落とし込むことで、徐々に基本的な能力があれば指導力を身につけられる体制が整ってきた。

 指導にあたるスタッフが増えることで、年齢も、バックグラウンドも、キャラクター的にも、多様になっていく。指導される側にとっても、する側にとっても、魅力的な場になっていくだろう。

 6月に塾生300人、スタッフ18人に届いていないと僕は五厘刈りにしなければならない(って言うことで、なんとか逃れようと気合いを入れてます)。指導力の強化にも力を入れつつ、一気にスピードを上げていくよ。


 アメブロならぬ「ダメブロ」で受験生に人気のシオンblog
 「ダメ男の鏡」
2009年4月6日

桜満開

早稲田、昼の神田川と、

皇居のお堀、夜の千鳥ヶ淵。

 千鳥ヶ淵の警備員が、赤いライトの点いた警備服を気ながら、「桜を照らすライトが光っているので、私もいつもより光っています」なんてジョークを拡声器を使って途切れることなく言って、ほろ酔い加減の見物客を笑わせていた。

 どんな仕事であれ、その道を徹すれば人に感動を与えられると思うと同時に、人を和ませるジョークも素敵だな、と思った。これまで見たきた警備員の中でも、圧倒的にレベルが高かった。今後、彼以上の警備員と出会えるのかな。

 道塾のウェブサイトは堅いし写真が怖いとよく言われるので、そろそろすこし笑いをとれるように崩していくつもり。もちろん、大学受験塾としての技術は日本一を自負できるよう追求し続けながら。そういうバランス感を大切にしたい。

 桜の咲く頃には道塾も落ち着くかと思いきや、5月そして7月とビックイベントが続きそうなので、僕らは変らず走り続ける。うねりを起こしていけそうな予感に胸が躍る。季節と共に、道塾はますます熱く激しくなっていくよ。お楽しみに。


 来年の桜の頃には、より多くの仲間、受験生、そして合格者たちの笑顔がありますように……!
2009年4月4日

子どもが生まれました


 という連絡をこの1ヶ月で二人からもらった。一人は中学からの馴染みで、僕が躊躇なく親友と呼べる数少ないヤツ。もう一人は大学時代にいちばんお世話になった政友会の先輩。ずっと気になっていたので、無事生まれたと聞いてほっとした。

 一方は大学院を卒業したてで入社4日目、もう一方は激務のテレビ局という大変な仕事環境だが、それでも間違いなく二人とも最高の父親になるだろう。娘さんということもあって、彼らが溺愛するのが目に浮かぶようだ。

 政友会の先輩は、「子どもは凄いぞ」と酔いながらも電話ごしに感動が伝わってくるほど語り続けていた。彼の興奮は一人の男が「父親」になったことの大きさを物語っていた。

 話しているうちに、道塾に入塾してくる子たちもこうした親の想いの元に生まれ育ったのだなと、自分たちのしていることの重さにあらためて気がついた。親は僕らに子どもの人生をいくらかでも「託す」気持ちでいるのだろう。それに応えなきゃならないと思う。

 子どもが生まれて親になるということについて、僕は本を読んだり人から聞いたりしての想像しかできない。ただ、どうやら人生観を根底から変えられるような出来事らしいということは分かってきた。

 昔は「俺が子どもなんだから持てるわけがない」とか「せいぜい30を過ぎてから」と思っていたのだが、不思議なもので、彼らの喜びが伝わってきたせいか、僕の中にも最近はその「変化」を楽しみたいという気持ちが芽生えているのを感じる。



 とはいえ、今すぐほしいとか、そういうわけではない。タイトルはちょっと驚かせようと思ってつけてみた。ま、3日遅れのエイプリルフールということで。
2009年4月2日

ネトゲ廃人(1)

 僕が人生でもっとも熱中したゲームは「Ultima Online」というネットゲームだった。MMORPG(Massively Multiplayer Online RPG)の元祖と呼ばれるこのゲームを高校入試の帰り道に買い、合格報告も耳に入らないほど没頭していった。「入学前にやるように」と高校から出された課題にも手をつけないまま、ただひたすらパソコンに向かっていた。

 後悔はまったくないが、高校を辞めた原因の何割かはこのゲームだと今でも思う。そうして社会的には落ちこぼれる一方で、僕はゲームの中で相当な力をつけた。数十人の仲間を率い、ゲーム内での1対1の戦いなら負けることがなかった。数千人いるサーバ内の一位決定戦で優勝したこともあった。

 最近あったいくつかの出来事から、こうした過去のゲーム周りの話をすることが多くなった。そのせいで、今日は久しぶりにこんな話をblogに書いている。

 僕が16,7の頃は、ネットゲームをする高校生自体が非常に少なかった。今ほどパソコンやウェブ環境が整っていなかったからだ。今じゃ「ネトゲ廃人」みたいな言葉まであり、こうした「落ちこぼれ方」はよくあるケースになったような感さえある。だが、そうした彼らに届く言葉を、いま誰が発することができるのだろう?

 僕がネットゲームにのめりこんでいった理由は、いま整理するとふたつ考えられる。ひとつは現実世界では感じられなかった自由さ。もうひとつは、無数の他者とのコミュニケーションの可能性だ。ネットゲームの世界には、田舎の中学や高校の生活では味わえない、素晴らしい世界があるように思えた。

 過去の僕と同じような境遇にいる若い子たちは、僕が彼らと同い年だった頃よりも、ずっと増えているように思える。おそらく学校は僕が通っていた頃よりも息苦しくなり、反対にウェブでのコミュニケーションの可能性はより広まったからだ。つまらない日常に飽きてウェブの世界に没入するのは、僕には「正常」なことにすら思える。

 だが、ネットゲームという世界から醒めて外に目を向けた時、その「正常」さは現実という壁にぶつかり、脆くも崩れてしまいかねない。過去のゲーム歴を語りはじめた時、あの時あの壁を運良く通り抜けられた僕は、同じ壁の前で呆然としている彼らに言葉を届けるべきだと思うようになった。

 (2)へ続く。
2009年4月1日

人生最後の1日

 10代と20代で大きく変わったことのひとつは死生観。

 10代の僕にとって、死ぬ瞬間にいかに満足した人生を送ったと思えるかが何より大切なことだった。だが20代になってからは、最後の1日に満足して死ぬのではなく、今この一瞬一瞬に満足できるかの方がずっとリアルな問題になった。

 生まれてからずっと幸せで最後の1日だけ不幸せなのと、生まれてからずっと不幸せで最後の1日だけ幸せなのと、どちらがいいのだろう? という問いの末に、僕は最後の1日は不幸でもいいや、と感じるようになったのだ。

 だが、おそらく、今述べたことはどちらも現実には起こりえない。幸せと不幸せは繰り返しやってくるからだ。ある時それに気がついて、「満足した一生だった」と言える人であっても、不幸せよりも幸せの方が3%くらい多いだけなのだ、と思うようになった。

 その3%を大きくするためには、幸せも、不幸せも等しく引き受けなければならない。どちらか一方だけを選り好みすることはできないのだから。そうして、幸せ100・不幸せ97の道ではなく、幸せ1億・不幸せ9700万の道を歩みはじめた。

 それ以来、僕はあらゆることを引き受けられるようになった。たとえ人生最後の1日が絶望のただ中で終わるとしても、それは単純に「運」の問題に過ぎない。いつ人生が終わるかなんて、誰にも解りはしないのだ。

 だから、日々を燃やし尽くせるように、全力をかけて生きていく。


 #エイプリルフールのネタが思いつかなかったので、ちょっとマジメに。