2008年10月31日

道塾のロゴ

 道塾のロゴが完成、公開しました。スタッフの三井のお母さんが書道の先生で(もちろんみっちゃんも書道ができる)、忙しいところをお願いして書いてもらったもの。

 ロゴひとつ作るだけでも、実は色々な人が関わっている。はじめにジョンが企画して、みっちゃんが動いてくれ、三井母が何度もサンプルを書いてくれ…。そうしたやりとりを何度も繰り返した末にできたのが、この一枚。


 半紙に墨で書いただけでは綺麗にスキャンできないから、特殊な方法で三井母に書いてもらい、さらにスキャンしたイメージをみっちゃんが加工してウェブで使えるようになった。まさに親子の共同作品。

 仲間と仕事をするようになってから、同時並行でさまざまなタスクが処理されるようになった。今回のロゴを作るにあたっても僕は「こっちの方がいいんじゃない」とか言っていただけ。MEGA PEACEをやっていた頃も感じたが、いつの間にか物事が進んだり、出来上がったりするのは不思議だ。
 
 たくさんの人の力を借りて、日々の物事が進んでいるのを実感する。関わる人数も増え、加速度的に物事は進行していく。僕は時に思い切りよく方向転換をしたり、ジャンプをしたりできるように、いま走っている「道」の先を思い続ける。


 【ロゴ】 「道」を囲む円の微妙なかすれ具合がすごく気に入ってます!
2008年10月30日

仕事と生活の一致。ニューノーマル。

 昨日付けのエントリーでこんな風に書いた。

 今年になってから僕は「仕事と生活の一致」ということを語るようになった。24時間の中で、生活の時間と仕事の時間を分けない、という考え方だ。僕にとっては、生活は仕事であり、仕事は生活であり、どちらも喜怒哀楽の源泉であるからには、変わりないものだと思いたかった。

 このことには長らく愛用してきた(今は文庫本カバーになっている)「ほぼ日手帳」の思想も入っていた。ただ、この考え方について、最近すこし思うことがあった。今日はちょっと長くなったから、それについてはまた明日にでも書こう。
 (『いつの間にか』

 「生活と仕事の一致」を目指すと、まず生活と仕事の時間を区切らないスケジュール帳が必要になる。1日24 時間を途切れることなく管理できるツールとして僕が選んだのが「ほぼ日手帳」だった。今はパソコンと携帯を併用することでGoogle Calenderが「ほぼ日」の代わりになっているが、基本的な意味合いは変わらない。

 24時間軸という目盛りの中で、仕事と生活とに同じ価値を与え、どちらも同じように楽しもうとする。それが僕の「仕事と生活の一致」だった。ただ、1日が24時間以上欲しくなる日々の中においては、仕事と生活を等価にすることはできないということに最近気がついた。

 仕事と生活が僕に与える影響は本質的に異なる。そのことに気がつかずに僕は「仕事と生活の一致」を標榜していた。すると次第に仕事が生活を圧迫し、生活が仕事を浸食するようになった。一方の負担が増えると、もう一方にしわ寄せがいき…という悪循環の繰り返し。

 そういう時間感覚と格闘する中で、はっと気づかされた一節。

 ニューノーマルでは、仕事は大いなる満足感と金銭的な報酬を与えてくれることはあるが、安定感や安らぎはほとんど与えてくれない。確かに、安定感や安らぎを得られることはある。しかし、それを当てにしては絶対にいけない。仕事に取られる時間が増え、仕事から生まれるストレスも増える中、家庭生活を人生の安定剤にすることを最優先すべきである。 (ロジャー・マクナミー『ニューノーマル』 P77 )

 ロジャー・マクナミーという人は、梅田望夫の文章によく出てくるシリコンバレーの投資家だ。昼は投資家として、夜はバンドマンとして、日本では想像すらし難いスタイルで生きている。「ニューノーマル」というのは、そんな彼が提唱する新しい時代概念のことだ。彼はこうも語る。

 ニューノーマルでは、「家族」という言葉の意味を最大限に広げて使うべきだ。血縁関係がある人だけではなく、友人や隣人を含めてもいい。家族の構成についてのガイドラインは、ニューノーマル中ずっと進化し続けるだろう。中略。家族の形態はまちまちだ。自分の家族は自分なりに決めればいい。ただ、家族にふさわしい重要性を与えよう。 (同書 P79)

 仕事を終えたら仲間と一杯ひっかける。そこにはある種の「家族」的な感覚が存在する。だが、ニューノーマルの時代にあって、それは本当の「家族」たりえない。「仕事と生活の一致」の追求には限りがないのだ。仕事と生活との線引きをしっかり行い、上手くモードを切り替えられなければ、いつまでも「仕事」を引きずったまま生き続けることになる。

 マラソンみたいな人生において、それはいくらかヘビーだ。

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 毎日書くと言いながら、実際のところ、これを書いているのは11月2日の午前3時半。相変わらず僕は僕に負け続ける。ただ、これまでのように焦りを感じることはなくなった。理想にも、並ぼうと思えばいつでも並べるという気が甦ってきた。ようやく、ようやく上向いてきたたのかな。


 【ロジャー・マクナミー】についての梅田望夫の解説はこちら
2008年10月29日

いつの間にか

 昨日のエントリーで100個を超えていた。今年の目標の100エントリーに到達したら「感慨深い」なんてことを書きたいなと考えていたのだけれど、気づけばそんな感傷に浸る間もなく。

 昨日まで更新できていなかったのは「毎日更新しよう」と決めたにも関わらず、それをこなすことができていなかったからだ。20日という長い間、このことが僕の肩にずっと重くのしかかっていた。誰かに期待されているわけじゃない。でも、自分でやろうと決めたことをこなせていないことほど自己嫌悪に陥らせることはない。

 しばらく前からライフネット生命の岩瀬大輔という男をロールモデルの一人に置いた。彼は平日は毎日ブログを更新していた。マネックス証券CEOの松本大が何年もの間、味のある文章を(平日は)毎日書いて公開していることを知り、彼もまた毎日更新することを決めたらしい。なら僕は休日も含めて毎日更新しようと思ったのだ。

 僕にとって、それが分を超えた壁であることは明らかだった。元々「継続する」ことが苦手な性格の加えて、自分の存在を乗せない文章は書きたくなかった。日記的な報告で文字を埋めるのは簡単だったが、薄めたビールみたいな文章を載せたくはなかった(それが無いとは言い切れないが)。

 時間に追われ続ける日々の中で、土日も含めて毎日書き続ける。それが早々に破綻するのは目に見えていたから、僕はそれを宣言することもなく書いてきた。「最近よく書いてるね」とか「長くて読むのが大変だよ」とか言われながらも、自分との勝負だと思って、書き続けていた。

 予想通り、僕はその勝負に負けた。秋という季節の力によってと書いたけれど、それは無意味な言い訳に過ぎない。大切なのは、やるべきことをやれるのか、否かなのだ。やることは当たり前で、やらないことは敗北なのだ。毎日というハードルは高かった。でも、それは僕にとって今までの生きることの原理に根ざしたハードルだったのだ。

 今年になってから僕は「仕事と生活の一致」ということを語るようになった。24時間の中で、生活の時間と仕事の時間を分けない、という考え方だ。僕にとっては、生活は仕事であり、仕事は生活であり、どちらも喜怒哀楽の源泉であるからには、変わりないものだと思おうとしてきた。

 このことには長らく愛用してきた(今は文庫本カバーになっている)「ほぼ日手帳」の思想も入っていた。ただ、この考え方について、最近すこし思うことがあった。今日はちょっと長くなったから、それについてはまた明日にでも書こう。

 それじゃ、また明日。今日も(すこし遅れたけれど)更新できてよかった。おやすみなさい。


 【フォト】 色々あって、しばらく断酒していて、今日は100時間ぶりの酒(ビール)。美味すぎて鳥肌が立って、涙が出そうになった。。。
2008年10月28日

秋の憂鬱と、復活

 「秋はよくないよね」という話を色々な人とした。庄司は「激しくない」とケチをつけていた。そう、日が短くなっていき、次第に寒くなっていくこの季節は、どうしようもなく憂鬱になる。受験生に「季節なんか気にしてるんじゃねぇ」と言いながら、自分がこうでは仕方ないよなと思いつつ、この3週間を送ってきた。

 僕は調子の上がり下がりがかなり激しい人間だ。人と交わっている時はたいてい好調なので、そうじゃない時の自分には結構凹む。ただ、気分の波は誰にでもあることで、それを嘆いていても仕方ない。人と交わって好調な自分よりも、不調な今の自分こそが本来の実力だと思い直して、その中でやれることをやろうとしてきた。

 調子の波が一番出るのは文章だ。調子が悪くなると、まずblogが書けなくなる。能動的なアクションを起こす力がまずはじめに失われていくからだ。そういうわけでここ3週間ほど、blogの更新が滞っていた。ようやく、すこしは上向いてきたかなと感じる。これまでの間に少しずつ書いてきた20本の記事をアップしたいと思う。

 blogには手をつけていなかったが、その他のことは不調なりにこなしてきた。仲間や後輩がたくさんいてくれるおかげか、多少はコントロールできるようになった。昔は調子が落ちるとアルコールの量が増え、最終的には朝から晩まで酒を飲み続けていた。生きることから逃げるように過ごしたあの頃と比べれば、だいぶマシになったのだと思う。

 好調の時にしかできないことがあるように、不調の中でしか気がつけないことがある。僕らが生きていく中で心震わせる瞬間に出会うためには、その瞬間に目を閉じて通り過ぎることはできない。傷を負うこともあるが、それには黙って耐えていくしかない。どうしようもない痛みだけ、酒で洗い流せばいい。

 傷が癒えることはない。でも、それでいいんだ。僕は、喜怒哀楽の全てを明日への糧にしていく。


・投稿した記事一覧
8日 自前の価値
9日 危険な道
10日 幸福の分かれ目
11日 最大のリスク
12日 満員電車
13日 変化の後の世代
14日 システム
15日 猫バス
16日 No.1になること、Only oneになること(1/3)
17日 No.1になること、Only oneになること(2/3)
18日 No.1になること、Only oneになること(3/3)
19日 走ること、考えること。(1/2)
20日 走ること、考えること。(2/2)
21日 MEGA PEACEと「つながり」(1/4)
22日 MEGA PEACEと「つながり」(2/4)
23日 MEGA PEACEと「つながり」(3/4)
24日 MEGA PEACEと「つながり」(4/4)
25日 「早稲田への道」がWaseda Linksに掲載されました
26日 大隈塾プロジェクト2008に紹介されました
27日 走ることについて語るときに馬場の語ること


 ふう。ようやくblog復活。もうしばらく、また書き続けられるといいな。


 【フォト】 男は黙ってサッポロビール。
2008年10月27日

走ることについて語るときに馬場の語ること

 「卒論のための聞き取り調査をしたい」

 そんな手紙が東京家学に届いて、僕が会うことになった。手紙をくれたのは、ある大学の四年生の女の子。卒論のタイトルは「長期欠席児童・生徒の学校外学習の状況と課題」というもの。

 長期欠席状況の学校外学習なら僕以外に誰がいる、というくらいなつもりの専門領域なので、たくさんの話をした。僕の生い立ちにはじまり、道塾のこと、そして東京家学のこと…。

 僕が話すと、それに応えるかのように彼女も生い立ちを語ってくれた。話を聞くと彼女自身も様々な理由によって、中学に4年間、高校に4年間通った後に、今の大学に在籍しているということだった。

 昼間は通わなかった中学校で、放課後に担任の先生が時間外労働なのに英数国を指導してくれたこと。チャレンジスクールを経て大検を受験し、それから大学受験に合格したこと。僕の生き方と重なることもあって、なんとなしに親近感を覚えた。

 彼女はこれから東京家学以外にもいくつか取材に行くつもりだと言っていた。長期欠席の子の学習状況が卒論のテーマになるくらい、求めている人がいる時代なんだな、と励まされた気分になった。取材の後に交換したメールでは、できることがあれば協力したいと申し出てくれた。嬉しい話だ。

 走ってると、それに共感してくれる人が現れる。一つの方向を目指す同士が、世界中から集まってくるみたいに。仲間が一人、また一人と増えていく感覚は、戦っている者にとって何より心強い支えになる。

 走ることについて語るときに馬場の語ること。

 僕はマラソンが嫌いだ。長旅が嫌いだと書いたのと同じ理由で、僕は人生という長距離走をやっているのに、なんでリアルな生活でまでそんな疲れることをしなきゃならないんだと思う。だから村上春樹みたいにリアルで100kmも走るわけじゃない。ただ、うるさいくらいに更新する僕のblogは、走ること、語ること、それが意味あることを証明するための営みだと思っている。

 「人は誰かに勧められてランナーにはならない。人は基本的には、なるべくしてランナーになるのだ。」 (村上春樹 『走ることについて語るときに僕の語ること』)

 確かにそうだろうと思う。でも、村上春樹にだって、憧れるランナー、心を許せるランナーとの出逢いがあったはずだ。だからこそ、走り続けてこれたはずだ。だからこそ、ここまで小説を書き続けてこれたはずだ。

 誰しも、そういう出逢いの可能性は持ってる。

 ただ。

 そういう出逢いをしなければ、人は決してランナーにはなれない。ランナーになった方がいいなんて勧めるつもりは僕にもない。でも、走る人がいないと見えない。声に出してる人がいないと聞こえない。見えなくて聞こえなければ、出逢うことなんてできっこない。

 だから僕は走り続けるし、そのことを語り続ける。共に走る仲間が一人でも増えればいいなと願いながら…。


 【フォト】 昼の大隈講堂。
2008年10月26日

大隈塾プロジェクト2008で紹介されました

 知り合いが割と載っているので読んだ人もいると思うけれど、タイトル通り、大隈塾プロジェクト2008に紹介(この記事)されました。向こうで語りすぎたので、こっちでは自粛して黙っておきます。


 【フォト】 記事用に「何かお気に入りの写真を」といわれたので、MEGA PEACE vol.1のフライヤーで使ったものを探し出してみた。
2008年10月25日

「早稲田への道」の話がWaseda Linksに掲載されました


 今日発刊のフリーペーパー「WASEDA LINKS」で、以前書いた取材が記事になってます。早稲田祭運スタ4年のジャイアンと共に、かなりシュールな姿で写ってますが(デザインは最高なんだけど…!)、よかったら手に取って読んでください。

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 企画してくれた石井ちゃんは、「道」を経て受かったと2年半前に連絡してきてくれた子。対談相手になってくれたジャイアンとの出会いは、ジョンと麻雀を打っていた時で、卓を囲んでいる途中に「道」の出身だと偶然わかった。ものすごく驚いていたジャイアンが、しかし平然と「あ、それロンです」と言っていたのが懐かしい。

 思い返せば、この頃から「早稲田への道」を書いていたことを公言するようになり、「読んでましたよ」という後輩たちと出会うようになった。そして、それがやがて「道塾」というものを生み出した。それを1年続けた後、またこれも「早稲田への道」を読んで大学へ進んだと言ってくれた後輩が声をかけてくれたことが「東京家学」の立ち上げへとつながった。

 1 :u :03/07/25 11:39 ID:LHAwNUcd
 あんまりこの板きてなかったんだけど、
 テストも終わったんで、去年の恩返しをしてみようと思う。


 なんて気持ちではじめた「道」が、僕が「教育再建」ということを20代の核に据える起点になった。あの頃は想像すらしなかったけれど、このスレッドを建てたことが僕の人生の転換点になるのかもしれないなと最近は思う。そして、それはなかなか面白いな、とも。

 世界の中でも珍しい悪意の坩堝、ウェブのゴミ溜めみたいに思われている「2ちゃんねる」。そうした薄暗がりに一筋の光を差し入れるように、暗闇から明るい未来へと続く希望の「道」を描くことができたのなら、僕のしてきたことに意味はあるのだろう。僕が貫いていきたい生き方のイメージにも、ぴたりと重なる。

 僕が実際にそうした生を送ることができるのか、それは後になってみないと分からない。ただ今は、ここまで僕を導いてくれた「道」と、それを通じて出逢うことのできた多くの人に感謝しながら、未来を見つめていたい。そして、僕はこれからもこの出逢いを広げていくつもりだということを、最後に書き記しておこう。


 【フォト】 雑誌の記事の中でも触れた映画『ショーシャンクの空に』。平山ビルの階段に張ってあるこのポスターは、庄司が新居祝いに仕入れて買ってきてくれたもの。
2008年10月24日

MEGA PEACEと「つながり」 (4/4)


 2007年12月15日、14時00分。

 MEGA PEACE vol.1 開場。

 無理言って2週間で作ってもらったパンフレットの、代表挨拶。

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 他人との間に壁を作る。斜に構える。無関心なふりをする……。

 そんな幼い頃からの癖がある一方、
 心のどこかで寂しさを感じてきました。
 家族とは素直に向き合えず、友人にも心を開けない。
 仲間も、親友も、愛する人も、長いあいだ僕にはいませんでした。

 「おもしろいこと、ないかなぁ。」
 そうつぶやいていた自分を振り返ると、
 だれかに手を差し伸べてほしかったんだなと思います。

 あの時から五年。

 自分を賭けられる「おもしろいこと」を求めてたどりついた今日。

 一年に一度、さまざまな人が所属を超えて集まり、
 音楽を通じて出会う「MEGA PEACE」。
 家族、組織、世代、肌の色や言語。
 そうした「所属の壁」の外側へ想いを馳せ、
 ほんの一瞬でも心を通わせられる一日であってほしい。

 限られた時間の中、
 パフォーマーたちは「それぞれの本気」で練習を積んできました。
 その間に育まれてきた「人とのつながり」が、
 MEGA PEACEのもっとも大切にしたい部分です。

 紡いできた「関係性」を、
 磨いてきた「音楽性」に乗せて、
 他では感じられない心のふるえを起こします。

 関係性は目に見えにくいものです。
 だから、パフォーマーたちの表情の裏に隠されたドラマを、
 ぜひ想像してみてください。
 一緒に手を叩き、踊り、歌ってみてください。
 もし何かを感じたなら、
 パフォーマンスを終えた人に声をかけてみてください。
 その過程ひとつひとつがMEGA PEACEを彩ります。

 手を差し伸べられるのを待つのではなく、
 自分から一歩踏み出すことの大切さ。
 大学生活で学んだ、どんな授業よりも僕の糧となっていること。
 それを音楽祭の舞台を通じて伝えたい。

 その想いが実り、
 今日こうしてMEGA PEACE vol.1を開演することができました。

 ご来場ありがとうございます。
 最後まで存分にお楽しみください。

 MEGA PEACE 代表 馬場祐平

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 残り2ヶ月……、ファイト!!


 【フォト】 MEGA PEACE vol.1 初期のミニ立て看。作ったのはちょうどこの時期だった。懐かしいね、これ?
2008年10月23日

MEGA PEACEと「つながり」 (3/4)


 僕は、MEGA PEACE vol.1で出会って、生涯つきあっていける人間は、だいたい20人くらいかなと思っている。僕が代表として大学生活で培ったすべてを注ぎ込んだイベントで、この人数でしかない。色々含めてMEGA PEACEの最中に出会った1000人くらいの人とは別々の道を歩んでいくだろう。

 でも、僕にとってその1000人の1人1人は、たとえ会わなくてもかけがえのない存在だ。僕が「音楽を通じたイベントをやる」という声をあげたことで、僕のまったく知らないところから人々が集まってきた。自分から一歩踏み出すと、たくさんの人が存在するということを感じることができた。

 今後僕がどのようなコミュニティに属したとしても、恐れることはないだろう。風穴をあけるまでもなく、一歩踏み出せば理解しあうことができると僕は知ったからだ。

 とはいえ、日々の争いの中でそういう感覚は薄れていく。他者を信頼する気持ちは渇いていく。実際問題、隣部屋の奴への想像力を持つのは難しい。相変わらず「うるせーな」なんて腹を立てるかもしれない。だからこそ、その乾きを癒して、再び他者を信じられるようになる場所が、MEGA PEACEであればいいなと思っている。

 それが、僕が今年のMEGA PEACEに期待していることだ。


 【フォト】 家学オフィスは気遣う人が多いせいか、旅に行く人が多いせいか、平均すると3日に1回くらい「おみやげ」的なものがある。僕は「おみやげ」的なものを買うのが苦手なので、ちょっと心苦しさを感じつつ、ぱくぱく頂いている。
2008年10月22日

MEGA PEACEと「つながり」 (2/4)

 「5cmの穴を空ければ世界は変わる」と書いた。でも、現実に部屋に穴を開けることはできない。だから、隣部屋の住人と理解し合うことはできない。できることなら「一緒に歌を歌おうぜ」って誘えれば最高のMEGA PEACEだけど、そんなことができるわけはない。じゃあ、こんなお話はどうだろう。

  MEGA PEACE vol.2当日。ふらっと大隈講堂に立ち寄って、見ず知らずの人間と時を共有し、ほんの一瞬だけ心を通わせた場から帰ってきたひとりの男。相変わらず隣部屋の住人がうるさくしているのを聞いて、「俺も今晩騒いだしな」と思う。テレビをつけながら「騒がしいけど、まぁ悪い奴じゃないのかもな」って考える。

 深夜番組を見ながら、「そういえば今日のよく分からない音楽イベント、一歩踏み出すとか、他者への想像力とか言ってたな・・・。あの爺さんが語ってたことにはちょっと感動したな」なんてことを考えた後、隣部屋の奴のことを想像して「今度会ったら挨拶でもしてみるか」なんて思う。

 「こんな話あるわけねーだろ!」って突っ込まれるかもしれない。でも、僕にとっての人とのつながりというのは、こういう経験でしかない。それを繰り返していく過程で、次第に世界の見え方が変わった。隣部屋の奴に話しかけるなんて本当にささいなことだけれど、でもこうしたささいなことの積み重ね以外に、壁を穿つ道はないと僕は思う。

 なぜなら、僕自身が「一歩を踏み出す」という行為を続けることによってのみ、自分の道を切り拓いていてきたからだ。そして、いかにささいに思えようとも、それを実行する最初の一歩は意外と踏み出しにくい一歩だ。これは自分の経験を振り返ってみて感じることだ。


 【フォト】 夜の大隈講堂5(WASEDA125の夜)。
2008年10月21日

MEGA PEACEと「つながり」 (1/4)

 昨年のMEGA PEACE vol.1を通じて「人と人とのつながり」の大切さを語ってきた。曖昧で分かりにくいとか、宗教団体みたいだ、なんてこともよく言われていた。僕自身がうまく言語化できなくて、たくさんの人に要らぬ苦労をかけたとも思う。相変わらず語りにくいテーマではあるが、戸塚ちゃんと話したこの機会に少しまた触れてみようと思う。

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 人と人とのつながりが大切であることは、わざわざ言うまでもないことだ。なぜそれをわざわざお題目に掲げるのだろう?

 誤解されやすいのは、たくさんの友だちをつくる場=MEGA PEACEである、という図式だ。すると友だちがいることが「つながり」となって、そうじゃない人間関係は「つながってない」ものになってしまう。僕はむしろ、友だちじゃない人間に目を向けることこそ、MEGA PEACEの本質であってほしいと思っている。

 たとえば、隣部屋の住人が気味悪いと言っている人がいるとする。よくある話だ。わずか5cmくらいの壁によって遮られているだけで、よく知りもしない人間に対して敵意が生まれることがある。それは僕らの習性だ。

 その5cmを超えるのは難しい。「じゃあわかり合うために壁を取っ払って一緒に住もうぜ」なんてことには決してならない。人はそれぞれのコミュニティで生きているし、それを守ることなしには生きていけないからだ。

 実は、その5cmの壁に1日だけ風穴を穿てば世界は変わる。隣の奴が自分の好きな野球チームを応援していたり、好きな芸人が一緒だったり、そんなことだけで、僕らは隣部屋の住人に心を許せたりもするものだ。

 問題は、その5cmの穴をどうやって開けるのか、だ。


 【フォト】2007年10月21日、WASEDA125のラストステージ。あれからもう1年も経つんだね。
2008年10月20日

走ること、考えること。(2/2)

 忙しすぎて考える暇がないのは、まだいい。ただしそれもせいぜい1ヶ月くらい。1ヶ月も色々と経験すれば、人間は別人と言っていいくらいに変わっていく。その瞬間に頭を使っていなければ、道を踏み誤ってしまう。とはいえ、踏み誤るのは一つの経験だから、決して否定すべきことではない。

 危ないのは、走るよりも、まず先に考えてしまうこと。走っていれば、自然と障害物にぶつかって、考えざるをえないのに、考えているだけでは、障害物にぶつからず、かといって出口も見えない、のっぺりとした迷路に入り込んでしまう。そこは何も起こらず、気分を沈滞させる、最悪のエリアだ。

 僕はよくそのエリアに入り込んでいたから、よく分かる。同じように、多くの学生は頭で色々な危険を考えられてしまう分だけ、「まず走る」という感覚が希薄だと思う。それは、チャンスが無数に転がっている学生にとって、あまりにもったいない状況だと思う。走れば、怪我をするかもしれないが、少なくとも何かは得られる。前に進める。

 僕より一つ年上のあるビジネスパーソンと、すこし前に飲んだ。19で会社の社長となり、「20で親父の年収を超えた」という彼は、「休みは1年間に5日だけ」というペースで走り続けながら、毎月50冊の本を読み、どう生きるかを考え続けていた。

 「『頑張ります』っていう人間は好きじゃない」と彼は言っていた。頑張るのは当たり前で、そこから先が勝負なんだ、と。努力家なんていう言葉が生易しく思えてしまうくらい、淡々と日々やるべきことをやり続ける人からは、すこし話すとこういうセリフが聞ける。

 そのレベルで僕らも勝負しなくちゃならないなと思う。


 【フォト】2007年10月20日の大隈銅像。大隈重信の人生125歳説からすると、この日がご臨終の日。ということで2008年10月20日は1周期になるのかなと思っていたけれど、でも、よく考えたら125歳まで生きるのだから、正確には今日がご臨終の日なのでは…?
2008年10月19日

走ること、考えること。(1/2)

 「どんな仕事が向いてるか自己分析を…」 就活がはじまるこの時期になるとよく耳にするセリフだ。あるいは、「今は忙しすぎて考える時間がなくって…」 早稲田祭の前あたりの1年生からはこんなセリフも聞こえてくる。

 僕は大学3年まで、走らずに考えてきた。大学4年から、考えずに走り続けてきた。考え続けた後、走り続けたということになる。このことを後悔しているわけではないが、振り返ればもっとスピードを上げることはできたと思う。

 僕がしてこなかったのは、走りながら考えるということ。

 立ち止まらないこと。頭を止めないこと。この二つを同時に成し遂げたいなら、考えながら走り続ける以外に方法はないんだ。どちらかで手を抜けばその分だけ、スピードが落ちるか方向を誤るかしてしまう。

 だいたいの方角が見えたらすぐに走りだす。それから自分のフォームを意識し、修正しながら、道の行く先を考え、標識を見て、障害を乗り越え、走り続ける。これをただひたすらに繰り返していくことが、自分が進むべき近づく、もっとも手っ取り早い方法だと最近は思う。


 【フォト】 塩原先生と、教え子@道塾オフィス。
2008年10月18日

No.1になること、Only oneになること(3/3)

 No.1になること、Only oneになること(3/3)

 大学受験にはゴールがある。だから、道を指し示し、手っ取り早くスピードをあげてやりさえすればいい。それは僕が「道塾」でやっていることだ。でも、そうした競争は大学受験まででひとまず終わりにすべきだろう。点数やスピードにばかりこだわっていても、偏差値教育、No.1を取ることへのこだわりから抜けきれない。

 何度も書いてきたように、No.1になっても幸せにはなれない。幸せの解は、人の数だけ存在するのだ。幸福度が年収と比例するという調査結果がある。でも、だからって自分がNo.1であれば幸せなのかは、別の話だ。幸福に「答え」はないのだ。自分で問いを作り、答え、それが正しかったのかどうかを検証できるのは自分だけだ。

 No.1 に近い場所に行けば行くほど、競争は熾烈になる。その勝負で勝ち残れる人間は、ごく一握りであって、どんなに強い人間でもどこかで折り返し地点を曲がる。その競争の中で、自分にとって本当に大切だったものを、脇にどけてしまうことがある。そんな後悔だけはしたくないと思いながら、僕自身がそうなりそうな恐怖も感じる。

 Only oneとしての生き方にこだわりながら、その中でNo.1になる努力を続けること。その寄り添いの間にこそ、僕の目指す生き方があるように思っている。


 【フォト】 塩原先生@家学。
2008年10月17日

No.1になること、Only oneになること(2/3)


 「俺様No.1」と歌える人間は、それだけの過去があったのだと思う。僕はそれを言いうるほどの生き方をしてこなかった。下から数えてNo.1の方が自信あるくらいだ。実際、高校に通っていた頃は下からNo.1を取っていた。

 いまなら全部それを笑い飛ばすこともできるけれど、あの頃はさすがにそうは思えなかった。同じように、これから先に出会う順位競争を、僕が無視できるかは分からない。

 30代、40代はよく、出世や年収のレースになると聞く。50代、60代にもなればそれが意味のないことに気がつくというが、その渦中においてもそれを忘れないでいられるかどうか。

 果てしない生存競争の中で、他人がNo.1になる瞬間を心から喜べる人間でありたい。そのためには、自分基準のOnly oneを追い求めていること。それが必要条件なのだと思う。


 【フォト】 東京家学、主立った関係者を集めての、初めての鍋パーティー。
2008年10月16日

No.1になること、Only oneになること(1/3)

 「Only oneにならなくてもいい、元々俺様No.1!」

 大学時代にいちばんお世話になった先輩が、よくこんな歌を歌っていた。彼は小学校、中学校、高校と続けて生徒会長を務めるような、まさに「俺様No.1」な人だった。こんな歌詞を歌うくらいに、見た目も偉そうだし、それが許されるだけの能力もあった。

 でも様々な経験と苦労を経た彼が言う、「俺様No.1」という言葉の向こうには、単なる「Only one」志向、単なる「No.1」志向を超えた、「Only one」と「No.1」の寄り添いのようなものが見えたものだ。彼はこんな歌を歌いながらも、誰からも愛され、慕われていた。

 「No.1にならなくてもいい、元々特別なOnly one」というのは間違っていない。ただ、「『「元々』特別なOnly one」であることに甘えてたら、その「Only one」はひどくぼやけたものになるだろう。誰もが「Only one」だとしたら、そんな「Only one」は存在しないのと同じだ。

 意味ある「Only one」とは、ただ与えられるのを待つのではなく、自ら創り上げていくこと。その中でこそ、価値あると信じられる「Only one」が生まれてくる。それは、自分にとってこの生き方がベストだという選択の末に生まれるものだ。無数にある選択肢の中で「自分にとってのNo.1はこれだ」と言い切れること。「Only one」と「No.1」の寄り添いを、僕はそこに見ている。

 【フォト】10月8日に入籍された基芳さん。偶然にも、翌日に会って祝杯を挙げることができた。おめでとうございます!
2008年10月15日

猫バス

 乗るべきレールはなくなった。もう、電車には乗れない。どうやって前に進めばいいかな。僕は妄想する。そして思いつく。

 電車の代わりに、猫バスがあればいい。トトロに出てきた、目的地を適当に変え、猛スピードで走り、どんな場所にも連れてってくれそうな、あの生きているバスだ。ふかふかしたシートに仲間達と腰掛け、酒盛りでもしているうちに目的地につけたら最高だと思う。

 ただし、残念なことに、そんなバスはおとぎ話の中にしか存在しない。

 でも、僕らは二本の足を持っている。人類最大の発明の一つの自転車もあるし、そして現代には自動車や飛行機だってある。すぐには乗りこなせないかもしれないが、すこし練習したり、訓練したりすれば、自分で目的地へたどりつくための大きな力になってくれる。

 もちろんこれは比喩だ。その意味は僕らには自分で考える力があり、自転車から飛行機に至るまで、自分の進みたい道を加速させてくれる道具も揃っている。蒸気機関が広まった頃のように、今はウェブによって自分のスピードを加速させることができる。

 僕はこの年のはじめから自転車にのったようなスピード感があるが、最近は車に乗り換えられそうな気がしている。自分でもこのスピード感に驚くし、正直なところ、ちょっと自分自身の能力が追いついていけなくて戸惑っているくらい。ま、現実には普通免許すらもっていないのに、と後輩に笑われそうではあるけれど。笑

 レールがない時代においては、自分で自分の行く先を考えながら進んでいくのがいい。それが危険な道を選ぶことが実は安全だということであり、戦略的に生きるということだ。おとぎ話みたいな愉快な生き方があればいいが、実際にはそんな毎日だったら飽きてしまうと思う。だから、僕は今の生き方が結構気に入っている。
2008年10月14日

システム


 「電車に乗れ」と言われたからとりあえず電車に乗ってみたはいいが、そこは思っていたような快適な場所ではなかったし、目的地まで運んでくれるかもどうやら怪しい。そもそも、目的地ってどこなんだ? そんな状況じゃ、誰だって電車を降りたくなる。でも、そうして降りた彼らはこぞって排撃される。

 彼らは目的地にたどりつきたかったと思っていた。そのための努力もしたと思う。でも時代がそうさせなかったのだ。その原因はどこにあるのだろう? 僕は、ミスの原因をひとりの人間に求めたくはない。若者を非難する大人たちは無責任だと思うが、それも仕方ないことだと思う。

 問題はすべてシステムによって生まれる。

 そのシステムを変えていくのが、僕らのやっていくべきことだと思ってる。もちろんそんな大それたことができるわけじゃない。でも、複雑に絡み合ったシステムは、混沌とした時代においては、ほんの小さな動きでも予測できない結果をもたらすことがある。北京で舞う蝶の話のように、僕らの小さな活動がシステム全体に影響を与えることがある。

 道塾にしろ、東京家学にしろ、これから僕がやろうとしている幾つかのプランにしろ、目指している場所からすれば、どれも取るに足りないくらい小さなことだ。でも、そうした小さな活動の積み重ね以外で、何かを成し遂げられることはない。だから、日々地道にやっていくだけだ。

 このささいなblogの、このしょーもない記事の更新も、そのひとつだと信じて、今日もまた投稿ボタンを押す。


 【フォト】 東京家学で、カリキュラム会議の一コマ。
2008年10月13日

変化の後の世代


 前時代的な価値観で、自分たちの成功体験だけを頼りに、相変わらず満員電車に乗れという大人たち。

 僕は、そんな大人たちは無責任だなと思う。麻生太郎が総理大臣になる直前、ある講演会でこう語っていた。「僕らの世代が、逃げ切れる最後の世代」。彼は皮肉を込めて語っていたのだが、つまるところ変化の時代より前に青春を過ごした人にとって、変化の後の世代に寄り添うだけの想像力はないということだろう。

 逃げ切る人々と同じ夢を持ちながら、しかし逃げ切れない時代に生まれた人たちは、この変化の時代に対応できないだろう。団塊の世代からはじまって、ロストジェネレーションという世代にまで達する、変化の前の価値観によって成功し、あるいは振り回されてきた人々の世代。

 すると、僕らの世代が変化の後に青春を過ごした最初の世代ということになる。守るものもないし、満員電車に乗っても仕方ないことも身に染みて分かっている。つまり、僕らは未来のための価値を自分たちの手で創れるはじめての世代なのだ。

 大法螺吹きだと言われるのを承知の上で、僕はその覚悟で生きているし、これからも生きていきたいと言い続ける。


 【フォト】 たまには真面目に、元BCG代表の内田和成@大隈講堂。
2008年10月12日

満員電車

 次の目的地が示されていない電車と、目的地の示された電車がある。どちらを選ぶか? その理由は? 

 目的地が示されている電車に乗ることが推奨されるのは、その道が安全だと信じられているからだ。そうした道を選ぶことは、価値の変化がない時代には正しい選択だった思う。たとえ満員電車だとしても、次の目的地へ確実に届けてくれるのなら、すこし息苦しくても我慢していこう。僕らの親たちはそうやって生きてきた。

 でも、たとえば地震が起きてレールが途切れる時がある。あるいは、自分の進むべき目的地が分からなくなることがある。それが僕らの時代だと思う。だからって次の目的地の分からない電車に乗ろうとする人間はいない。その結果、目的地の示された電車にも、示されていない電車にも乗れないことになる。

 するとレールはなくなってしまう。八方塞がりで、未来が不安になってくる。「若者に希望がない」とか「3年で新人が辞める」とか言われたりするけれど、その一端にはこういう事情があるように思える。変化の時代において、レールを信じられなくなっているのに、大人たちは相変わらず満員電車に乗れという。

 アウシュビッツ行きの列車に詰め込まれるユダヤ人みたいな、そんなコースから僕は降りた。


 【フォト】 Krispy Kreme Doughnuts & John!
2008年10月11日

最大のリスク

 自分のバックグラウンドと、自分の生きている時代を考えるたび思うのは、危険に思える道を選ぶことが、あまり危険でなくなった時代に生まれることができてよかったということだ。僕が30年前に生まれていたら、きっと今頃どこかで酒を飲みながら時代への愚痴をこぼし続けていたかもしれない。

 リーマン破綻のように、信じられないことが日々起こる。投資の世界で言われきたたことが、今この瞬間には余計に当てはまると思う。変化の激しい時代においては、リスクを取らないことが、最大のリスクなのだ。リスクを取れなくなったら、もはや変化に対応できず、滅びる以外に道はない。

 これは理屈では容易に分かる。でも、実行するのはかなり難しい。危険な道を選ぶことが実は危険でないということ。それを実感し、日々のささいな行動の中にも織り込んでいくこと。無謀な冒険者になるのではなく、戦略的に、勇気を持って一歩踏み出すということ。

 それが一番安全な道だ。僕の生き方は人には危なっかしく見えるのかもしれないが、僕にとってはこれが一番安全な道に思える。就職先人気ランキングの企業の少なからぬ割合は、10年後には決まって落ち目になっている。率直な感想を言わせてもらうと、安全だと思われている道を歩んでいる人の行く先が心配でならない。

 そんなことより自分の単位を心配しろよと後輩達に言われそうだけれど。笑


 【フォト】 夜の大隈講堂3。
2008年10月10日

幸福の分かれ目

 危険な道を選ぶということ。

 僕がそのことに自覚的になったのは、大学3年の末頃だった。たくさんの出逢いや読書の積み重ねでたどりついた結論だが、決定的だったのは岡本太郎との出会いだ。それは、やはり僕のバックグラウンドが歩ませた道なのだろう。

 大学に入る前から、誰もが「幸せになれるよ」と思っている道が、必ずしもそういうわけではないことに気がついた。今みたいに言葉にできるわけではなかったけれど、僕の直感は明らかにそれを告げていた。どういう道を選べば、僕は幸せになれるのだろう?

 中学や高校を辞めたのも、その疑問があったからだと思う。勉強して、いい成績をとって、いい大学へ行って、稼ぎのいい職業につくことが、果たして本当に幸せなのか? その答えは明らかにNoだった。そんな道を誰も彼もが息せき切って競い合って走っている。 なぜだろう? その疑問が晴れるのは、大学に入って半ばも過ぎてからだった。

 僕なりにたどりついた答えは、自分の幸福は自分で決めるしかない、ということだった。このblogのタイトルは「午後2時のビール」という。その理由は、サイドバーに書いた。幸福になれるか否かの分かれ目は、自分の「好き」を自分で守れるか否かだということ。

 誰もが認める幸福のレール従って生きるのは、とても安定したレールに思える。でも、僕にはそのレールの先にたどりつく場所が、危ういように思えた。だから僕は、誰がなんと言おうと自分が後悔しない道を選んできた。自分が大切だと思うものは、手放さず握り続けようとしてきた。

 そのように何かを守るためには、力が必要だった。早稲田というフィールドは、僕に必要な「力」を身につけさせてくれる場所であるように思えた。それは決して学歴などという単純なものではなく、手触りのある、自分の感情と共にある、生々しい力だ。振り返れば、それを手に入れるために僕は大学受験をはじめたのだと思う。

 自分の大切なものを、決して手放さないこと。誰になんと言われようとも、それだけは守っていければいいなと願う。


 【フォト】 夜の大隈講堂2。
2008年10月9日

危険な道

 自前の価値を創造していくこと。

 それが時代の変化に流されずに自らを輝かせながら生き延びていく方法だと思う。効率よくこなす勝負はキリがない。そこではNo.1とそれ以外が明確に区別される。でも、進む方向を自分で選べば、そこで得るものは自分だけの価値になる。

 自前の価値を持つためには、自分だけの経験をすることが必要だ。いかに人と違うものを見て、いかに人と違う経験をして、いかに人と違う言葉を語れるか。それは端的に言って、岡本太郎の言葉を借りれば、危険な道を選ぶ、ということだ。平凡な日常の道を選ぶのではなく、危険に思える道を選べるか、否か。

 僕は、危険な道を選べる人間でありたいと思う。そのために必要なのは、勇気だ。


 【フォト】 夜の大隈講堂。
2008年10月8日

自前の価値

 いま本屋に行くと仕事術の平積みされている。ホワイトカラーの生産性が低い日本を立て直すには、物事の効率を上げるのは確かに必要な処方箋だ。僕もわりとよく読む。でも、そこで忘れちゃいけないことがある。それは、物事の効率化でできることには限界があるということだ。

 やるべき仕事が増えてくると、物事をテキパキとこなすことが評価されるようになる。大学のサークルでも忙しいところだと、そうした傾向が強いように思う。企業で言えば営業成績No.1といったところだろうか。それはそれで大切なスキルだ。でも、いくらスピードが速くなっても、たどりつけない場所がある。

 それは、たどりつくべき場所を自分で創り出す力だ。どのように価値をつけるか(How)の能力ではなく、どんな価値を創るか(What)を考える能力。たとえば、全体がマイナスの方向に向かう時に、あっちに行けばプラスがあるということを指し示す力。それが僕の言うクリエイティビティーということの定義だ。

 Howのことばかり考えていると、大きな流れを見失ってしまう。そのためにWhatの思考が大切になってくる。大きな流れの中でのトップスピードを競う力ではなく、自ら流れを作り出していくこと。言い換えれば、自前の価値を創造していくということ。

 僕は仕事の経験が少ないから、それを補うために仕事術の本を読む。読みやすく即効性も高いから、ついつい手が伸びる。でも、そのたびに僕はこんなことを自分に言い聞かせている。

 自前の価値を創造していくこと。それ以外に生き延びる道はない。


 【フォト】 明治通り沿い、わっしょいの横に新しくできたワンコインのインドカレー屋。副都心線の影響でか、この辺りは出店ラッシュ。
2008年10月7日

戦略的学習、戦略的人生。


 「趣味の読書」から「学ぶための読書」へ変えたと、しばらく前のエントリー「100冊、10000人」で書いた。

 なんとなく手に取り、なんとなく読んで、なんとなく面白がって、なんとなく忘れていく。それが「趣味の読書」。戦略的に購入し、効率的に読み、意識的に影響を受けて、機械的に定着させる。それが「学ぶための読書」。「趣味の読書」に留まっている限り、読書から得られる知識量の点で、「学ぶための読書」の意識で生きている奴との差は開いていく。

 とはいえ。

 ショーペンハウエルが『読書について』で語るように、結局のところ「読書とは他人にものを考えてもらう行為」であって、本を読むこと自体にさしたる意味はない。確かに「多読は愚者を作る」。ただ梅棹忠夫が『知的生産の技術』の中で言うように、読書には「発見のための触媒作用」としての働きがある。

 読書という触媒作用を通じて、発見、すなわちオリジナルな思考を生み出す。その「触媒作用」を加速させるのが「学ぶための読書」だ。オリジナルな思考の材料となるのは「自分固有の経験」と「そこに書かれた知識」。そうした経験と(知識とを結びつけたところに、新たな行動指針が生まれてくる。

 思考のための食べ物(=food for thought)という考え方がアメリカにはある(らしい)。これはそのまま読書に当てはまる。大切なのは暴飲暴食でぶくぶくと太ることじゃない。できるだけ良いものを多く食べ、消化し吸収された栄養をフルに使って、いかなる結果を生み出すか。その材料・触媒という点において、読書の価値があると僕は思う。

 「food for thought」は読書に限られるものじゃないが、ごく一部の天才を除けば、その多くは読書を経てこそ得られるものだ。だからこそ、もっと学ぶために本を読まなければ、と思う。「多読は愚者を作る」と喝破したショーペンハウエルは、歴史を振り返っても稀な読書家だった。

 (もっとも広い意味での)他者と差別化できる知識だけが自分の価値を決めるこの時代において、学びなく生きることの危険性を最近つくづく感じる。もっと学ぼう。もっと本を読もう。


 と、中退2回&大学6年の僕が言ってみました。笑













 なんて笑って平和に終わろうとしたのだけれど、やはりそんな悠長なこと言ってられる状況じゃないと思うので、今日はもう一歩踏み込んで書こう。

 周囲を見渡していると「どこに学びがあるのか」という意識と、そこにたどり着くための「戦略」が決定的に欠けていると思う。日本の教育のどこに「学び」があるのか、明確に答えられる人はどれだけいるのだろう。特に大学教育なんて、腐りきっている(断言してもいい)。そんな状況にどっぷり浸かっていたら、自分まで腐ってしまうことに気がつかないのだろうか。

 日本のトップエリートが次第に腐っていく現在を見て、僕らの国の行く末がとても不安なものに感じられる。腐った沼みたいなこのシステムを変えるため、どうしたら非力な僕の力が及ぶかなとすこし前から考えるようになった。まだ具体的なプランが見えているわけではないけれど、来年にはそのための行動を起こすべく思考を重ねている。

 もし学ぶ場所が周囲にないなら、それを見つけるために必死になった方がいい。どこにもないなら、ウェブと読書とをベースに、どこで生きていけばいいかの戦略を練ればいい。行き当たりばったりの「趣味的」な生き方には訣別した方がいい。今ある流れに、流されないこと。じゃないと、墜ちていく日本と同じように、自分自身も墜ちていってしまうよ。

 すべての始まりは戦略を持つこと。戦略なき学びは、趣味的な学びに過ぎない。戦略なく生きるのは、趣味的に生きるということ。趣味的に生きるには、人生はあまりに短い。もっと本気で、戦略的に生きよう。


 そんなことを、中退を2回した後で、大学6年になる今まで考え続けてきたつもりだ。そして、これからも考え続けていく。


 【フォト】(左から)こーすけ、キャシャ君、コテツ君の3人組と、わっしょいにて。
2008年10月6日

大丈夫です。


 先日、ある大学のセンター長も務める精神科の先生にお会いした。僕が高校に行かなくなった時期に、存在すら知らなかった大検の取得を勧めてくれた恩師でもある。僕は今までに2回、精神科の先生にお世話になった事があるが(10歳頃と、17歳頃の2回)、いずれも母に無理矢理つれていかされたものだ。

 その時も、僕を心配していた母の希望に沿う形で診察室へ出向いた。当人は「大丈夫なんだけどな」と思いながらも、ただでさえ心配性の母を不安のどん底に陥れているダメ息子として、せめてもの罪滅ぼしにという理由で。

 診断結果は、「元気ですね。大丈夫です。」という予想通りのものだった。当時の僕は「そりゃそうだろ」と思っていた。その後の僕の人生が本当に「大丈夫」なのかは意見が分かれるところだろうが、僕なりには道を歩んでこれたと思う。なにより安心したのは僕の母だった。今では母と飲みながら「精神科に連行されたよね」と叩ける軽口もある。そういう意味で、あの診断は意味あるものだった。

 それ以来、7年ほど僕から先生に何の連絡もせずにいた。そんな非礼にも関わらず、先生は最近の僕の仕事の話を熱心に聞いてくれた。研究だけでなく、日に 100人を超える患者を診てきた臨床医としての経験から、発達障害と学習障害(LD)に関する見解や、僕が仕事をしていく上でのアドバイスをいただくこともでき、とても有意義な時間を過ごすことができた。

 今までの僕は、自分の経験と本から得た知識とで日々を乗り越えようとしてきた。それに限界があると気づいた最近は、その世界でプロとしてやってきた人に話を聞くことが多い。限りなく起こる問題と長年向き合ってきた人の経験談を聞くと、その姿勢に頭が下がる思いになるのと同時に、自分の未熟さに思い至ることができる。

 世の中には、見えないところでたくさんの人の努力が働いている。過去を振り返れば、僕自身もその中で育まれてきたのだろう。もっとたくさんの人々に会い、学んでいこう。そして、僕自身が受けた恩を、何らかの形で返していけたらいいと思う。


 【フォト】 スペインバル、Vinulsにて。
2008年10月5日

EXPLOSION -爆発-

 大学生が大規模に行うイベントの多くは、よそからブランドを借りてきて箱を埋める形式のものが多い。僕がやってきた政友会の講演会などはその最たるもので、呼ぶ政治家の知名度によって客の入りが露骨なまでに違う。本人達がどれだけ広報を頑張っても、ブランドがなければ客が埋まらない。だからこそブランドにこだわり、その上でいかに集客へとつなげるかという部分が多くのイベント運営の肝になる。

 それはそれで学ぶべきことが多く、意味のあることだ。ただ僕自身は、自前で価値をつくることを大切にしてきた。意味のないところに、意味を作り、見出していくこと。そしてそれを広めていくこと。言い換えればブランディングだ。それは個人のレベルでは「自分創り」と言えるだろう。自ら問いを投げかけ、意味を見出し、自前の価値をつけていくということ。

 ブランドを借りてくるのではなく、自前でブランドをつくること。他には替えられない価値を創るということ。僕は個人においても、組織においても、そこに魅力を感じる。

 昨夜のSHOCKERS STAGEは、まさしくSHOCKERSが5年間に創り上げてきた価値が表出されていたと思う。大隈講堂が大入り満員、立ち見まで出ていたことだけでも十分に証明されているだろうが、それ以上の魅力を僕は感じた。

 正直に言えば、僕は大学生が作るイベントの多くに失望してきた。仲間がやるイベントを除けば、単純なイベントとして芯から心が震えるものは少なかった。僕の感受性や想像力が及ばなかったこともあるとは思う。でも、友人が多かったという贔屓目を差し引いても、昨日のSHOCKERS STAEGはエンターテイメントとして最高だった。それは、彼らが観る人を本気楽しませようという心を共有していたからに思える。

 「ショックを与える」という意味の込められた雷マークのSHOCKERS。「日本を元気に!世界を笑顔に!」というモットーの彼らのステージは、見る人にエネルギーをくれる。「EXPLOSION -爆発-」というテーマに違わぬ、彼らの全力で、命懸けで、何より笑顔で取り組んでいる挑戦を見て、僕自身、自分の笑顔をもうすこし明るくしよう、と思わされた。

 金をもらわないアマチュアのイベントの多くは「自己満足」で終わりがちだ。SHOCKERSは日々の弛まぬ努力に加え、「応援する」という元々のコンセプトゆえに、観客を楽しませようという意識が生まれやすく、あれだけのステージを創り上げることができたのかもしれない。学生が自己満足で終わってしまうのは技術的に仕方ない部分がある。でも、だからこそ、その分だけ彼らの意識の高さを見習うべきであるに違いない。

 SHOCKERS STAGEで始まった後期の早稲田のイベントは、今年も自前の価値を創ろうとするチャレンジングな企画がたくさんあるだろう。僕の周りだけでも、10月末の稲穂祭、11月頭の早稲田祭、そして12月11日のWEF(Waseda Entertainment Factory)に、12月28日のMEGA PEACE vol.2と続いていく。

 WEFの面々が昨日のSHOCKERS STAGEを見て(素晴らしすぎて)ずいぶんと凹んでいた。たしかに、それだけのものだった。自前の価値を創ることの難しさに直面している彼らが、ここからどれだけ奮起するのかが楽しみだ。


 【フォト】 終演後にもなかなか人が去らない大隈講堂前で、SHOCKERS立ち上げ人の一人で、復帰組のぎっちょ君と。ショッカー役で「これからどうする?」と言う彼に、「卒業しろ」という観客からの声がこの日一番笑えた。
2008年10月4日

精神の旅

 秋の風があまりに気持ちよくて大隈講堂に腰掛けて本を読んでいると、旅の途中のよーへい君に出会った。早稲田祭で局長を務めた後、MEGA PEACE vol.1.5でも活躍していた彼は、所持金ゼロ円で早稲田を出発し、来年1月のテストまでに47都道府県を回ろうとしている。東京に戻っているのは内定式に出席するため。

 旅の話を聞くと、彼のblogを読んでいるだけでは気づけないことを聞けた。昨日のエントリーで「表面にはベストな状況しか見せることはない」と書いたが、まさしく彼の生き方はそうなのだろう。「無銭飲食で小遣いまで貰いまくって、きっと太って帰ってくるね。笑」という予感は、真っ黒に焼け、心なしか逞しくなったように見える彼の姿で、見事に裏切られた。

 旅といえば、僕も大学時代はよく旅行をした。それでも2週間を超える長旅をしたことはない。「人生という長旅だけで精一杯なのに、それ以上に長旅をして寄るような場所はない」なんて嘯いてきたけれど、要するに旅を続けるのが億劫なのだ。物理的な旅というのは性格的に合わないらしい。

 長くなればなるほど旅は「当たり前のもの」になっていく。よーへい君のblogにも書かれていた通り、出会うものとの感動が薄れていくのだ。沢木耕太郎「深夜特急」の出だしが、そのことを克明に描き出している。インドの安宿で、非日常が日常化していく場面。すべてが日常化した世界から抜け出せないでいると、日々は次第に色褪せていく。

 「非日常が日常化する」という旅に対して、「日常を非日常にする」ということが僕の大学後半のテーマだった。あたりまえの日々に彩りを与え、ありふれた出来事の輝きを取り戻すこと。そのためには、日常という世界から一歩踏み出さなければならない。あえて非日常の世界へと一歩踏み込まなければならない。

 旅は、人生の喩えとしても使われる。そこには、本来的には非日常な世界が、いつの間にか日常化してしまう、ということが含まれているに違いない。僕は、そんな生き方をしたくはない。

 旅に出て一歩を踏み出し続けることと、ごく普通の生活の中で一歩踏み出し続けること、その間に本質的な違いはない。そのことに思い至れば、なんでもない日々の中から、非日常という世界をつかみ取ることはできる。それは、精神の旅だ。

 それができないように感じられたこともあった。2年前の今頃、休学して1年間インドに行こうか迷った時期があった。ビザまで取ったが、悩んだ末に取り止めて早稲田に残ることにした。旅に出ないという道を選んだことで、今の僕とあなたとの関係がある。

 よーへい君がまだ知らぬ土地を追い続けているように、僕は早稲田という東京の一区画で非日常を追い求めてきた。その判断は間違ってなかったと思う。場所は変わらずとも、これからもそうやって生きていきたい。

 【フォト】よーへい君。また来週から旅に出るとのこと。
2008年10月3日

日本一の男子チア、SHOCKERS! ~ショカステ~

 僕の大切な後輩の一人、タミフルからメールが来たので掲載します。彼は、テレビにも出ることのある日本一の男子チア「SHOKECERS」に所属している早大2年生。このポスターのスマイルは、その先輩で代表の杢元くん。

 SHOKCERSは今年で5周年を迎える。立ち上げメンバーの一人、ギッチョ君も5年生(笑)。最初は色モノでしかなかったSHOCKERSも、既に早稲田の目玉のひとつに思える。その彼らが、他のチアと共に、誕生5周年の記念イベントをする。

 杢元くんとは授業で一緒だったこともあって、どうしたら盛り上がるかな、という話をすることもあった。「チア」にこだわってきた彼らが、自分で舞台をつくり、客を集めるという(おそらく)はじめての試み。

 高いハードルに、あえてチャレンジした彼らを賞賛したい。成功してほしいと思う。明日(10月4日、土曜日)の17時から、早稲田大学の大隈講堂にて。僕は行くので、よかったら友だちをたくさん誘いつつ、一緒に観に行きましょう。

 以下、タミフルからのメール。

 **************

「チアリーディング=女の子がするもの」という常識を覆し、USA nationals2008というチアリーディングの全国大会でも優勝した男子チアリーディングチームSHOCKERS。そんなSHOCKERSが5周年を記念して初めて自分達でイベントをすることになりました。




★☆SHOCKERS STAGE☆★
http://shockers.s76.xrea.com/index.html

日時 10/4(土)
開場 16:30 開演 17:00 終了 19:00
会場:早稲田大学大隈講堂
♪入場無料♪

SHOCKERSだけでなくさまざまなチームを招待して協会や競技の枠を超えてチアの楽しさをお届けします。

~~内容~~
◆◇SHOCKERS◇◆
・競技チアだけでなく、
・ダブルチームバトル(BLACKとYEKLOOWの2チームに分けエンターテイメントを追及したパフォーマンスを行います)
・パートナースタンツ(4人1組を基本とした演技)
・5年間を振り返る映像

◆◇招待団体◇◆
・社会人チアリーディング、キッズチアダンス、チアダンス
・BIG BEARS、FALCONS、SHOCKERSの早稲田3大チアリーディングチームによるコラボ演技

SHOCKERSを知っている人はもちろん、知らない人も。チアを知っている人も、知らない人も。みんなみんな楽しめるイベントなので、お友達、ご家族などなどお誘い合わせのうえ、ぜひご来場ください!!

早稲田大学からSHOCKERSが、数多くのチアリーダーたちが、早稲田に、そして日本中にチアリーディングの素晴らしさをお伝えします!

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 僕の同居人のコテツ君がSHOCKERSの練習を見学してきて、こう言っていた。「練習では失敗ばかり。何回もヒヤッとする場面があるんですよ。成功してるところしか見えないけど、裏ではあれだけ命がけで頑張ってるんだなって」。

 そう、表面にはベストな状況しか見せることはない。僕のこのblogがそうであるように。でも、その裏ではギリギリのところで生きてる。誰もがそうに違いない。日々の生活の中ではそれを窺い知ることすら難しいけれど、そのことを心で感じることができた時、その人の生き様に涙することができる。そういう瞬間を大切にしていきたいと僕は思っている。

 【フォト】 町中に張ってある杢元くんのポスターと、隈前のタミフル。頑張れよー!
2008年10月2日

児童相談所

 東京都の児童相談所に行ってきた。敷地に入るとすぐに古めの都営住宅のような建物が見えた。相談所の敷地内に職員の住む家でもあるのかなと思って地図を見てみると、そこには「一時保護所」という名前がつけられていた。虐待を受けた子を主として、行き場所のない子どもを一時的に預かる場所らしい。

 エントランスにあるパンフレット置き場を眺めていたら、「里親募集」といった紙が目についた。親と一緒に住むことができなくなった子を、一定期間預かる制度があると書いてあった。NHKの朝の連ドラでも取り上げられているようだが、僕はこれまで知らなかった。

 出てきた担当者の方と名刺を交換した後、「相談室」という部屋で話しはじめた。アポイントも取らずに伺ったのに、僕の今やっていることを話すと、興味深そうに話を聞いてくれ、と同時に僕の知らなかった話をたくさん聞くことができた。都の職員なのだろうが、地味な活動に、真摯に取り組んでいる印象を受けた。

 世界には、自分が想像できるよりもずっと多くの問題が存在する。そして、それを解決しようとしている人も、その分だけ存在する。でもそれに気がつくことは少ない。昨日のエントリー「批評される精神」の中で僕はこう書いた。

 「ある境遇を自分が不幸だと感じていたり、当たり前だと感じていたり、あるいは幸せだと感じていても、別の人はそこにまったく違う意味を見出すことがある。」

 自分の境遇のことがどのように見えるのか。その答えは人の数だけ存在し、それを知るのは容易でない。知れたとしても、その多くは身近で、価値観の近い人の意見であることが多い。今自分がいるエリアの向こう側、自分とは違う立場にいる人のことを知ること、理解すること、想いを馳せること、それは本当に難しいことだ。

 「早稲田への道」、「道塾」、「東京家学」を通じて、少なからぬ数の子どものリアルな背景を見てきた。子どもの数だけ背景があり、その中には致命的と思える問題がある。それを知れば知るほど、そうした問題が生まれざるをえない「社会」や「世界」への憤りをが生まれてくる。と同時に、世界の不条理さにやりきれない気持ちになる。

 自分の経験を超えて、その向こうにいる人々の抱える問題に気がつくことは、今の日本社会ではとても少ない。MEGA PEACEを発端として、自分のいる場所の向こう側にいる人に目を向ける機会を得てから、そうした問題の根深さに気がついた。

 僕は今日、「児童相談所」という、今まで知らなかった場所へ一歩踏み出してみた。まったく新しい世界がそこにはあった。そこで悩む人、戦う人、そうした人々の姿が垣間見えた。それと同時に、その非効率さや制度的な問題も知ることができた。誰が悪いというわけではないが、やれることはもっとあると感じた。

 僕がやっていることはちっぽけなことに過ぎないが、その小さなことの積み重ねが、何かしらの意味を持つようになればいいと思う。まだまだ僕の知らぬ世界が存在し、解決すべき問題が山積みになっているはずだ。その一つ一つを取り崩すようにやっていきたいと思う。

 
 【フォト】 「西早稲田駅」近く、明治通り沿いの居酒屋「わっしょい」の周辺にできたインドカレー屋(ワンコイン!)。2件隣には昨日オープンしたラーメン屋も。副都心線の開通で飲食店がこの辺りには増えてきた気がする。食欲の秋で、飲食店のメニューも変わり、牛丼屋に至っては安売り期間になってますが、食べ過ぎは身体を痛めます。くれぐれも気をつけましょう(と自分に言い聞かせる…)。
2008年10月1日

批評される精神


 僕が今のように色々な活動を始める以前にお世話になった先輩にお会いした。マレーシアで仕事をしていて、一時帰国している近藤武男さん。久しぶりなのだけれど、スカイプで時々話をしているせいか、そんなに会ってないと思えない。とはいえ、異国の地で日々の問題を乗り越えながら、未来について思いを巡らせている先輩の話を聞いて、なんだか嬉しく感じた。

 「あらら・からら」で美味いナスカレーをご馳走になった後、久しぶりに大学の教室へ向かった。久しぶりの原さんの授業。久しぶりの授業後のビール。ビールはともかく、毎日の登校はたぶん僕には耐えられないが、秋の涼けさと、活気溢れる隈前とが相まって、キャンパスがすごく楽しく感じられた。こんな日が毎日なら、僕も卒業しようと思ったかもしれない。

 いや、そんなことはないか。

 その後、ビールが入ったまま、ある大切な話し合いへ。

 そこで、ある人と話していて気がついたことがある。僕は自分の生い立ちを振り返り、そこに意味を見出し、それを人に語りながら、自分の活力にしていく、という生き方をしてきた。そうして自分なりの「哲学」のようなものを身につけて、一歩ずつ前に進みたかったのだと思う。

 ただ、自分で自分の生い立ちを振り返るとの、他者がそれを聞いてどのように感じるのかは、まったく別なのだということに最近気がついた。ある境遇を自分が不幸だと感じていたり、当たり前だと感じていたり、あるいは幸せだと感じていても、別の人はそこにまったく違う意味を見出すことがある。

 そして、それを聞いた当人は、新しく見出された意味に驚き、自分の過去を問い直す。そんなことを僕は最近よく経験している。それは、僕のように自分に意味を見出そうと努めてきた人間にとって、極めて刺激的なことだ。どうして今までそれに気がつかなかったのだろう、と思う。

 自分について語ったり、人について考えを巡らせることはあったけれど、真剣に僕自身について他人に問いを投げかけたことはなかった。これは僕に足りていなかったコミュニケーションなのかもしれない。新しい発見だ。

 自分自身が少しずつ固まってきた今、自分の過去を紐解いて、僕だけの見方じゃなく、世界に問いを投げかけてみてもいいのかもしれない。何にも守られることなしに、意味づけることなしに、素のままの自分の過去を、見せてもいいのかもしれない。僕は自分の表現ばかりを追い求め過ぎて、まっとうに批評してもらう精神に欠けていたのかもしれない。

 新しい人との語り合いのカタチを見つけた。またひとつ、酒の楽しみが増えた。


 【フォト】アリカにて、右が武夫さん、左は世一。店のおばちゃんが買い物に行くところを、店番するからと言って鍵を開けてもらって、冷蔵庫からビールを取り出して飲んでいるところ。