2008年12月4日

「年をとればとるほど、人間は弱くなるものよ」

 という話を聞いた。前後の文脈はあまり覚えていないが、このセリフだけは鮮明に覚えている。僕はいつの頃からか強くなろうと誓い、それを追い求めて生きてきた。いつまでも求め続けていくつもりだった。だが今、弱くなりつつある自分に気づかずにはいられない。

 強くあろうとする限り勝負は続く。だがいつか勝負に負ける日は訪れる。甲子園で勝てるチームは四千数百校中、わずか1校。数億いるサッカー人口のうち、世界の頂点に立つのは1チームだけ。だが彼らとて永久に勝ち続けるわけではない。どんな天才も老いには勝てず二流プレイヤーとなり、やがて現役から引退する。

 最後まで勝ち続けられないことは知っている。それだけが強みだといえるくらい、わずかな僕の智慧だと思ってる。だが、勝てない運命にあるからこそ、勝負が決まる瞬間までは戦い続けたいと思ってきた。拍手を送るべきプレイヤーは、絶頂の瞬間に引退した英雄ではなく、老いた体でも走り続けたファイターだと信じてきた。

 それが今、すこし揺らいでいる。

 負ける屈辱に耐えられない者が絶頂の瞬間に舞台から降りると思ってきた。だが、そもそも勝てる見込みのない敵と戦う僕らにとって、舞台から降りるのは非難されるべきものじゃないのかもしれない。勝てない勝負からはさっさと身を引いて、自分が勝てる領域に移る方が懸命なのかもしれない。

 肌が荒れる。酒に弱くなる。そんな身近なところから「負け」は僕らに忍び寄ってくる。そして負けの味を知るたびに僕らは少しずつ弱くなっていく。あんな風になりたくないと思ってきた「大人」に一歩ずつ踏み入れていく。すべてが輝いていたあの頃にはもう戻れない…。

 僕が比較的強く生きてこられた理由は、負けを知らずに生きてきたからだ。唯一負けたと思った勝負ですら、今や「負けてよかった」と振り返る過去になった。引きずって歩くような敗戦は何一つとしてない。そして、その姿勢をこの世を去る時まで貫くこともできると思う。でも、最近はこんなことを考えるようになった。その見せかけの勝利にどれだけの意味があるのだろう?

 超人的に見える奴だって、どこかで既に負けている。負けを知ることが、年を重ねるということなのだ。負けを知らないのは未熟な証拠に過ぎない。すべてに勝つことができないのなら、負けるべきは負け、勝つべきところで勝つ、その選択をする必要があるのかもしれない…。25歳という節目を迎えた明くる日の晩、杯を重ねる毎に弱くなる自分に気づきつつ、僕はぼんやりと考えていた。

 たぶん、傍から見れば僕が弱くなったとは誰も思わないだろう。でもこれからの1年で、自分は大きく変わっていくように感じている。外からはより強く見えるようになる反面、内側にあるものはより弱く--やわらかく--なっていくだろう。そんな予感のある最近、ここぞとばかりに「負け」が襲いかかってくる。だが、そう簡単に自分は変えられない。弱くなる自分をおいそれと受け入れることはできない。

 そんな強さと弱さの狭間で、僕は揺れ動いている。


 【フォト】 イルミシリーズ2、丸ノ内オアゾ前。