2008年10月1日

批評される精神


 僕が今のように色々な活動を始める以前にお世話になった先輩にお会いした。マレーシアで仕事をしていて、一時帰国している近藤武男さん。久しぶりなのだけれど、スカイプで時々話をしているせいか、そんなに会ってないと思えない。とはいえ、異国の地で日々の問題を乗り越えながら、未来について思いを巡らせている先輩の話を聞いて、なんだか嬉しく感じた。

 「あらら・からら」で美味いナスカレーをご馳走になった後、久しぶりに大学の教室へ向かった。久しぶりの原さんの授業。久しぶりの授業後のビール。ビールはともかく、毎日の登校はたぶん僕には耐えられないが、秋の涼けさと、活気溢れる隈前とが相まって、キャンパスがすごく楽しく感じられた。こんな日が毎日なら、僕も卒業しようと思ったかもしれない。

 いや、そんなことはないか。

 その後、ビールが入ったまま、ある大切な話し合いへ。

 そこで、ある人と話していて気がついたことがある。僕は自分の生い立ちを振り返り、そこに意味を見出し、それを人に語りながら、自分の活力にしていく、という生き方をしてきた。そうして自分なりの「哲学」のようなものを身につけて、一歩ずつ前に進みたかったのだと思う。

 ただ、自分で自分の生い立ちを振り返るとの、他者がそれを聞いてどのように感じるのかは、まったく別なのだということに最近気がついた。ある境遇を自分が不幸だと感じていたり、当たり前だと感じていたり、あるいは幸せだと感じていても、別の人はそこにまったく違う意味を見出すことがある。

 そして、それを聞いた当人は、新しく見出された意味に驚き、自分の過去を問い直す。そんなことを僕は最近よく経験している。それは、僕のように自分に意味を見出そうと努めてきた人間にとって、極めて刺激的なことだ。どうして今までそれに気がつかなかったのだろう、と思う。

 自分について語ったり、人について考えを巡らせることはあったけれど、真剣に僕自身について他人に問いを投げかけたことはなかった。これは僕に足りていなかったコミュニケーションなのかもしれない。新しい発見だ。

 自分自身が少しずつ固まってきた今、自分の過去を紐解いて、僕だけの見方じゃなく、世界に問いを投げかけてみてもいいのかもしれない。何にも守られることなしに、意味づけることなしに、素のままの自分の過去を、見せてもいいのかもしれない。僕は自分の表現ばかりを追い求め過ぎて、まっとうに批評してもらう精神に欠けていたのかもしれない。

 新しい人との語り合いのカタチを見つけた。またひとつ、酒の楽しみが増えた。


 【フォト】アリカにて、右が武夫さん、左は世一。店のおばちゃんが買い物に行くところを、店番するからと言って鍵を開けてもらって、冷蔵庫からビールを取り出して飲んでいるところ。