2008年10月27日

走ることについて語るときに馬場の語ること

 「卒論のための聞き取り調査をしたい」

 そんな手紙が東京家学に届いて、僕が会うことになった。手紙をくれたのは、ある大学の四年生の女の子。卒論のタイトルは「長期欠席児童・生徒の学校外学習の状況と課題」というもの。

 長期欠席状況の学校外学習なら僕以外に誰がいる、というくらいなつもりの専門領域なので、たくさんの話をした。僕の生い立ちにはじまり、道塾のこと、そして東京家学のこと…。

 僕が話すと、それに応えるかのように彼女も生い立ちを語ってくれた。話を聞くと彼女自身も様々な理由によって、中学に4年間、高校に4年間通った後に、今の大学に在籍しているということだった。

 昼間は通わなかった中学校で、放課後に担任の先生が時間外労働なのに英数国を指導してくれたこと。チャレンジスクールを経て大検を受験し、それから大学受験に合格したこと。僕の生き方と重なることもあって、なんとなしに親近感を覚えた。

 彼女はこれから東京家学以外にもいくつか取材に行くつもりだと言っていた。長期欠席の子の学習状況が卒論のテーマになるくらい、求めている人がいる時代なんだな、と励まされた気分になった。取材の後に交換したメールでは、できることがあれば協力したいと申し出てくれた。嬉しい話だ。

 走ってると、それに共感してくれる人が現れる。一つの方向を目指す同士が、世界中から集まってくるみたいに。仲間が一人、また一人と増えていく感覚は、戦っている者にとって何より心強い支えになる。

 走ることについて語るときに馬場の語ること。

 僕はマラソンが嫌いだ。長旅が嫌いだと書いたのと同じ理由で、僕は人生という長距離走をやっているのに、なんでリアルな生活でまでそんな疲れることをしなきゃならないんだと思う。だから村上春樹みたいにリアルで100kmも走るわけじゃない。ただ、うるさいくらいに更新する僕のblogは、走ること、語ること、それが意味あることを証明するための営みだと思っている。

 「人は誰かに勧められてランナーにはならない。人は基本的には、なるべくしてランナーになるのだ。」 (村上春樹 『走ることについて語るときに僕の語ること』)

 確かにそうだろうと思う。でも、村上春樹にだって、憧れるランナー、心を許せるランナーとの出逢いがあったはずだ。だからこそ、走り続けてこれたはずだ。だからこそ、ここまで小説を書き続けてこれたはずだ。

 誰しも、そういう出逢いの可能性は持ってる。

 ただ。

 そういう出逢いをしなければ、人は決してランナーにはなれない。ランナーになった方がいいなんて勧めるつもりは僕にもない。でも、走る人がいないと見えない。声に出してる人がいないと聞こえない。見えなくて聞こえなければ、出逢うことなんてできっこない。

 だから僕は走り続けるし、そのことを語り続ける。共に走る仲間が一人でも増えればいいなと願いながら…。


 【フォト】 昼の大隈講堂。